電脳経済学v3> g自分学> 1-1-2 社会人であること

小さい子供たちを観察していると色々と面白いことに気づくことができます。ついさっきまで仲よく遊んでいたかと思うと、ささいなことでケンカになってしまいます。ケンカしているかと思うと、いつのまにかまた仲よく遊んでいる、ということをくり返しています。要するにお互いに離れられないのです。
大人の場合といえども、基本的にこの行動様式は選ぶところがありません。もっとも大人の世界では、ケンカの方法において手がこんでいて大仕掛になってみたり、仲なおりの方もすんなりという具合にはまいりません。何しろ大人の世界には体面や意地があるのです。
この離合集散をくり返しながらも、お互いに離れることができない。つまり、思いが残るという点において、人間は意識の根底で相互にくくりつけられている存在です。私たちはそれを人間関係とよんでいます。人間は他人とのかかわり、つまり集団生活の営みなしに生きていくことはできません。
人間の本能といえば、食欲と性欲がその双璧と思われています。しかし集団本能はそれにまさるとする心理学者もいます。人は一人で人たるを得ないのです。
人間は社会的動物であるといったのは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスです。アリストテレスはまた、人間の心には植物心、動物心、人間心があるともいっています。これらはそれぞれ、生命、本能、理性に対応するものです。人間には生命を守るために、本能のほかに理性があります。人間はこの理性によって社会生活を営み人間らしくなるのです。

社会は第二の自然であるといわれます。
人間と社会の関係を知るには、社会と自然の関係を知る必要があります。一方、私たちは直接自然を知ることもできます。この人間・社会・自然の関係から社会を位置づけてみましょう。
この自然界は大きく鉱物と生物から成ります。そこでは基本的に"分散させる"力と"結合する"力が拮抗しています。拮抗とは、ほぼ等しい力が相対抗して微妙なバランスを保っている状態をさします。さしずめ与野党伯仲といったところです。この"分散させる"力は自然界の大部分を占める鉱物系の性質によります。一方、これに対抗して〃結合する"力は生物系の貢献によるものです。
私たちがよりどころとしているこの地球は、それ自体鉱物の塊にすぎないものです。しかし、その表層は水圏とよばれる薄い水の膜によって覆われています。その外側もまた大気圏と称される鉱物系によって包まれています。生物の営みはこの天地の間でくり広げられています。それは個体として、群として、種として、環境に適応することによって、生き永らえようとしている姿そのものであります。生態系はこの生物系と鉱物系の相互作用から、生物系自身を位置づけようとするものです。
社会が第二の自然とされるのは、主としてこの生態系にみられる生物の生存様式をさすものです。私たちはハタラキバチやテソトリ虫の挙動、ウサギ小屋の状態、夜行性のチョウやトリの習性を通して、エコノミック・アニマルの生態系について理解することができます。人間が自然を理解できることが不思議であるとすれば、人間が社会を理解できることはさらに不思議であり、人間が人間を理解できることは摩訶不思議といわなければなりません。人間は外側に自然、内側に社会という衣をまとって、その中で生きているのです。
社会を、生態系にみられるように、相互依存関係によって環境に適応する生活様式であるとするとき、その内部に何らかの"結合する"力が働くであろうことは、想像にかたくありません。事実、社会の原語であるソサエティにはそのニュアンスがあるのです。
この結合する力とは、物理的というよりむしろ精神的なつながりをさすものです。人間は離れがたい恩愛の情といったものによって、社会に結びつけられています。そしてその深みにわけいれば、精神的な共通のよりどころとしての文化があることに気がつきます。それが共有化された地平には文明の広がりがあります。
私たちの社会生活はこのタテヨコ十文字、つまり歴史としての文化、地理としての文明の交点で営まれています。この現実社会はこの時間としてのタテ軸と空間としてのヨコの広がりの接点で展開されている同時併行ドラマといえます。

この意味で、社会はまた歴史的産物でもあります。人間は労働を通して直接間接に自然に働きかけることにより、生産活動を営んできました。集団の力を結集することによって、およびもつかぬ成果が得られることを私たちは経験的に知っています。
このように社会はその形態において、人間の永年にわたる自然に対する適応様式を色濃く映し出しています。

ここで人間のあるいは社会のテキストとしての自然について、さらに一歩ふみこんでみてみましょう。不思議に思われるかも知れませんけど、人間は自然を変えることはできません。私たちは人間の役にたつように、自然の性質を利用しているにすぎません。
たとえば、川をせきとめてダムを造る場合、地形や水の流れを変えたかも知れませんけど、自然そのものを変えたわけではありません。自然とは因果的必然を表現する法則、性質、働き自身をさすものです。物や姿は自然の働きの結果が感覚的に捉えられているにすぎないのです。人為が加わらぬという意味であればそれは天然とよばれるべきものです。
ここにこだわる理由は、私たちが取り扱う範囲が広くなるにつれて、抽象概念の理解能力が必須となるからです。"見えるものは見えないものの現れ"とする態度がそれです。自然も社会もその本質において実体のないものです。たとえば、時間は見ることもさわることもできません。しかし、私たちは時計やカレンダーを通して時間を理解しています。人間は最も抽象的な概念である時間を理解できるのです。
自然と異なり、人間は社会を変えることができます。人間が変えるというより、社会がおのずと変っていくとする方が適切かも知れません。社会はそれ自体あたかも巨大な生き物のように、社会意識があって自律的に機能しています。社会意識は個人意識の集合体に違いないとしても、その合計値以上の働きがあります。私たちが社会現象を理解するとき、この社会意識に加えて、その情況が時々刻々と変動しているという「運動観」もまた欠かせません。

地震、雷、火事、親父といえば、古来人々が恐れるものを順番に並べたものです。これはまた人々が手に負えないものとして嘆き諦めている姿でもあります。親父は代表的な社会の産物ですから、親父の意識は社会意識のある面を表しています。私たちはそれが容易に変らないものであることを体験的に知っています。そうなるとむしろ、その性質をよくのみこむことが先決となります。
社会についても、性急にそれを変えようとすれば、お互いに傷つくだけです。その前に社会の仕組みや、社会の運動法則をよく見きわめる必要があります。物事はすべてそれなりの理由があってそうなっているのです。
私たちは川の流れを押して速めることもできないし、引張って遅くすることもできません。しかし、川の流れについてその原理を知ってしまえば、どんな大きい川でも容易に流れを変えることができるのです。川は川自身の力でその流れを決めているからです。