電脳経済学v3> g自分学> 1-1-4 参加による報恩

これまで述べたことを整理すれば、おおよそ次のようになります。これらはすべて「報恩」に収束していくものです。報恩とは、社会に対する感謝の気持にほかなりません。

1 問題意識をもつ
2 目標をたてる
3 現実に立脚する
4 実践の立場をとる
5 結果に責任をもつ
6 自分を価値づける
7 報恩を忘れない

ここでは最初の問題意識と最後の報恩について述べ、そのほかの点は折にふれ説明を加えていくこととします。

問題意識をもつとは、私たちの周辺を見渡して、これではいけないと思うこと。あるいは、どうしてそうなっているかと、疑問に感じることをさします。問題とは解決すべき事柄であって、トラブルとは限りません。
私たちは、ある種の違和感をもって、現実を受けいれています。違和感があることは、つまり基準となる何ものかを別にもっていることでもあります。これは人生観あるいは規範とよばれるものです。これと現実とのギャップが問題意識です。
たとえば肌寒いと感じて、セーターを着る。このような日常的な行為もその一種です。給料が安い、女房あるいは亭主の態度がどうも気にくわない、道路が狭い、老後が不安だ、さらには社会体制や世界平和について一言ある、といったこともそれにあたります。
このように見ると私たちは問題の山に取り囲まれているといえます。ある意味で、私たちはこれらの問題を解決するために生れてきたともいえます。問題をつくる人も結構多いようですけど、本人にその意識はありません。
この現実社会を矛盾に満ちたものと見るか、それとも自身の現実理解がまだ足りないとするか、これもまた本人の自由です。確かなことは、何とも思わない人には、現実を動かしていく力はないということです。

そもそも今時の若い者は……、大体今の世の中は昔に比べて……、オレたちの若い時分はネ……このようなお説教調の昔話、今の世を嘆く話、かつての自慢話、苦労話の類がくどくなってくると、周囲の人はご本人がいよいよご老境に入られたことを知ります。これらは老人ボケの前兆としておなじみのものです。
そのような人たちが好みそうな「報恩」という、いささか時代がかった言葉を、ことさらもち出したいと思います。当世風には“社会に対する貢献”とするところを、ここではあえて“参加による報恩”となります。報恩には、色々お世話になったとする感謝の気持が働いています。貢献とは社会の側が本人の功績を認める際の言葉です。これから世に出る本人の側からは報恩の姿勢であるべきです。
この世の中には三種類の人がいます。社会に対して感謝の気持をもっている人、何とも思っていない人、不満をもっている人です。人の気持のことですから、つねに揺れ動いています。同じ人でも、時によって、感謝をしたり、不満をもらしたりすることは、むしろ日常の姿といえます。それでも、誰もが社会に対する基本的態度はもっています。この態度ないし見方は人生観の根底をなすものです。
何に対して感謝するのでしょうか。それはすでに与えられているものに対する感謝です。私たちにはすでにおびただしいものが与えられています。それらはたとえば、親であるし、先生であるし、健康な体であるし、毎日の食事であるし、新鮮な空気であるし、なんらかの才能もあるでしょう。枚挙にいとまがないとはこのことです。
私たちの生活はこのすでに与えられているものの上に成り立っているのです。しかも、生きていく上で必要なものほど、すでに与えられていることに気づくことができます。
さらに忘れてはならないことは、陰の部分への感謝の気持です。世の中ひとりでに動いているものではありません。私たちの見えないところで社会を支えている人がたくさんいます。むしろこの見えない部分の方がはるかに大きいのです。その人たちのお蔭で私たちの生活は成り立っているのです。お蔭様でという挨拶語は、相手を通して神仏の助けに感謝の意を表わしている言葉であります。
自分の能力や実績を認めてもらえないという不満は、それぞれの立場で多いものと思われます。おそらく、多くの人がこのことで悩んでいるに違いありません。不満が多いとはまた求めるものが得られないことでもあります。しかし、不満を冷静に見ると、それは自分のふ甲斐なさを外にぶっつけている自身の姿にほかなりません。自分の目的や期待を、相手を通して実現しようとしているのです。そこには自分は認められたいけど、相手は認めたくない心理が働いています。自分の長所と相手の短所を突き合わせようとすること自体が無理というものです。
さらに不満の正体をつきつめていくと、そこには一方的な態度があります。自分にも相手にもできないことを望んでいるのです。それがかなわないと今度は相手を責めるといった自己中心的な甘えの姿が浮んできます。相手に対する共感、理解、同情といったものに欠けているのです。人は一人一人立場も考え方も違います。感謝の気持をもって、自身で努力していれば、人のことで心を奪われることはありません。

社会は公平であり、寛大であり、信頼に値するものです。それは社会の原単位である個人の意識をそのまま映し出しているという意味です。マルクスは『資本論』の中で「人間はまず、他の人間という鏡に自分を映して見る」といっています。
私たちは相手の中に自分の姿を見出しているのです。つまりは、相手や社会がどうこうではなく、すべてが自分から出て自分に帰っているだけのことです。
社会は特定の人のためにあるわけでもなく、一部の人のために動いているものでもありません。社会はその社会自身の運動法則にしたがっているだけのことです。私たちはその内側にあって、しかもその一部分しか見えないので、そのことに気づきにくいのです。自分が変ればすべてが解決します。自分は変らずに相手や社会を変えようとするから苦しくなるのです。
「大恩は報ぜず」という諺があります。小さな恩義は負い目に感ずるが、大きい恩は気づかずに平気でいるという意味です。親の口から親の恩を忘れるなとはいえません。まさに恩きせがましいというものです。親の恩、師の恩が説かれるのは、それが身近でわかりやすいからです。
私たちが社会から受けている恩恵ははかり知れないものがあります。その恩恵に報いたいと思うのは人間の自然な感情といえます。それが報恩であり、報恩とは特別に目立つような行いをすることではありません。当り前のことをするだけのことです。その前に何が当り前のことかが、見失われてきているふしもあります。それは極めて簡単なことです。権利だとか、対等だとか、損得だとか、そのようなことに心を奪われないことです。人間は見えるところで少々得をしてみても、結局見えないところで大損しているのです。見えないからわからないだけです。