電脳経済学v3> g自分学> 1-2-2 劣等感をバネとする

初めて動物園へつれていってもらった三人の子供についての逸話があります。彼らがライオンの檻の前に立ったとき、ひとりの子は、母親のスカートのかげにしりごみして「家に帰りたいよう」といいました。二番目の子供は、その場所に立ったまま、蒼白になって震えながら「僕はちっとも恐くなんかない」といいました。三番目の子供はじっとライオンをにらみつけ「つばをはきかけてやろうか」と母親にたずねました。
この逸話を例証にあげて、アドラーは本当は三人とも劣等感をもったもので、それぞれ自分の感情を自分のライフスタイルと一致した自分自身の仕方で表現したものであるとしています。
私たちの周辺でも、これと似たようなことは日常見受けることができます。弱気になりがちな人、強気に押す人、攻撃的に出る人、それがどのような態度であれ、これらは広い意味で、その人なりの“環境に対する適応行動”とみることができます。
アドラーはウイーンの精神医学者で、性を重視するフロイト説に対して「権力への意志」を中心にすえた個人心理学をうちたてました。アドラーは「人生の意味」について問いかけることにより、すべての人間活動の背後には一つの根本的た力が働いているとしました。それは、マイナスと感じる状況からプラスの状況へ、つまり劣等感から完全・全体性へ向う努力であるとするものです。
このことからアドラーは「人間であることは、劣等感をもつことを意味する」といいきっています。日頃つきまとう劣等感にさいなまれているわれわれ凡夫にとって救いとなる言葉といえます。本気で劣等感がないと思っている人は精神鑑定の要ありというわけです。

劣等感とは「身近かな周囲の人と比較して、体格、容姿、能力などが他人より劣っていると感じ、自分を低く評価する感情的反応」です。短かくいえば“ひけ目”を感じていることです。
劣等感はこのような身体的条件のほかに、学歴、地位、身分、資産、家柄、なまり言葉、親の職業、子供の成績から、隣の芝生、車、ファッション、アクセサリーにいたるまで、およそ劣等感の対象とならないものはない、といってよいほど広い範囲におよびます。
現代日本のように平等観が広く浸透している社会では、教育程度、社会的地位、収入に関するわずかの差に対しても敏感にコンプレックスが働きます。この民族的資質がまた経済発展の原動力となっているとしても、そこには対人恐怖的な心理が潜在しているように思われます。人に良く思われたい、人よりすぐれたい、恥をかきたくないという、人倫関係中心の社会が息苦しいことも確かです。この劣等感は自我の発達状態と密接な関係があります。自我とは他者との関係から自己を区別する意識で、自己中心的な感情とよんでもよいものです。

私たちは生れ落ちた直後には自我の感覚がありません。赤ん坊は自分が何ものであるかよくわからないのです。その後母親や家族関係を通して、自分の存在を感じとってくるのです。この感覚的な記憶をつみ重ねることによって自我が形成されてきます。
その基本的な部分は四、五歳位までの間にでき上るとされています。「三つ児の魂百まで」とはこのことをさします。この期間における、甘やかし、無視がのちのちの劣等感の遠因をなす、とするのがアドラーの主張です。
残念ながら成人となってしまった私たちには間に合いませんけど、劣等感というものが、思っているより根が深いことはわかるような気がします。自我の形成期間中に強く満たされないものがあったか、あるいは逆に安易に満たされてしまった、そのつけが劣等感として、私たちの身の上に降りかかっています。
人は誰でもまずく生れたのではなく、まずく育てられたのです。しかしいまさら親を恨んでも仕方ありません。親だって神様ではない以上、自分白身で劣等感を克服する以外に道はありません。
劣等感の心理構造を理解する助けとして、風船玉のような球のイメージを描いてみましょう。この風船は透明でその中は自尊心という空気で満たされています。風船はよくみると、地球の表面のように微妙な凹凸があります。この起伏が本人であることを証明する個性とか性格特性とよばれるものです。
劣等感はこの球の凹部に、優越感は凸部に関係します。さきほどの自我はこの球の中心あたりにあるとしましょう。この中心から特定の凹部を通して、それに対応する他者の凹部に対照させます。劣等感は両者の関係から、自分の凹部を実際以上に低く評価する態度です。それは一種の錯覚による思いこみです。優越感は反対に高く評価する考え違いです。
自尊心は自分自身を積極的に肯定評価する心です。自尊心が強いとはここでいう内圧が高いことに相当します。何となく寄りつきがたい印象を与えます。反対に低い人は好意や悪意に敏感に反応します。容易に態度を変える傾向があり、卑屈にみえます。人間誰しも自尊心があります。かつ、うぬぼれもあります。うぬぼれは実際以上に自分を評価しようとする態度です。優越感が特定の対象に向けられるのに対して、うぬぼれは全体的なものです。うぬぼれは自尊心と似て非なるものです。

このように劣等感は自分自身についての誤解といえます。劣等感を克服するとは、現実を認めてこの誤解をとくことといえます。そのためには、自分で自分を積極的に激励し続ける必要があります。このことによって、自身でひけ目に思っていたことが、実は個性であったことに気づくことができます。
とはいえ、なかなかその通りにできないのが人間です。しかし方法がないわけではありません。人間はそれがだめでも、これがあるという別のものをもっています。このことによる劣等感の克服を補償とよびます。
私たちの向上心を動機づけているものが劣等感であることは気づきにくいところです。劣等感をバネにするとはこのことを意味します。
ナポレオンは身長一五九センチメートルの小男であったと伝えられています。コルシカ島のイタリア系貧乏貴族の家に生れながらも、のちにフランス皇帝となり、フランス革命後の時代に、波欄の生涯を送った伝説の人ナポレオンは次のようにいっています。
  「逆運を克服することは高貴にして勇敢なことである」