電脳経済学v3> g自分学> 1-2-3 内なる悪魔との戦い

私たちの日常生活を人の動きから見れば社会活動とよぶことができます。社会活動とはまた人が目的をもって離合集散をくり返している姿でもあります。会社には社員が、学校には学生が、病院には患者が、デパートには買物客が、それぞれの目的をもって、集まります。
それでは、刑務所には犯罪老が目的をもって集まるでしょうか。滅相もないことです。犯罪者は自らの意志に反して、そこに叩きこまれてしまったものです。まれに自首してくる人もいるとしても、大体において犯人は逃げまわっているのが世の姿です。罪という重苦しいものを背負っているために、たかなか逃げおおせません。ついには捕われの身となって、ブチこまれて、裁かれて、最後にたどり着いたところが刑務所というわけです。
そこには、あらゆる種類の罪を犯した人達が閉じこめられています。そこはまた罪という心の悪をとり除くための処理場でもあります。
いれかわりたちかわり、そのようなことがくり返され、いつの世、どの世界でも犯罪がなくなるということはありません。罪もまたこの世をめぐりめぐっているといわざるをえません。

そのようた姿はまた自分の姿ともいえます。人間を社会の縮図とみれば、私たち白身の中にもまた、この罪なるものがまぎれこんでいるとしなければなりません。それをここでは内なる悪魔とよぶことにしましょう。
私たちの体にひそむこの内なる悪魔は、滅びの心をあやつって、マイナス言葉を吐かせたり、いやらしい目つきをさせたり、あの手この手で私たちをさいなませています。それらは次のようなものです。

無知、貪欲、勝気、自負心、移気、浮気、見当違い、間違い、誤解、猜疑心、懐疑、疑惑、疑念、権威主義、権力主義、商業主義、嫉妬、裏切り、謀叛、直情的、陰謀、謀議、共謀、計略、策略、失策、小智、小才、小手先、浅知恵、悪知恵、猿知恵、詐欺、泥棒、盗賊、国賊、匪賊、掠奪、博奕、監禁、訴訟、短気、功名心、手柄、敵愾心、敵意、殺意、殺人、自殺、圧殺、殺気、殺伐、殺りく、戦争、闘争、争議、葬儀、高慢、偏見、独断、傲慢、先入観、石頭、狼籍、失礼、失敬、粗末、粗忽、粗略、沮喪、遺漏、粗雑、空疎、空転、雑言、雑念、葛藤、煩悶、悶着、紛争、自己中心的、利已的、依頼心、依存心、甘え、幼稚、未練、

未熟、無分別、無能、無関心、無理解、無精、無慈悲、無視、無口、無気力、無力、無責任、無恥、無礼、無心、無骨、無為、無策、無作法、無用、無様、無暴、無慮、無謀、無縁、無念、無理、矢理、無茶、苦茶、無断、無頼、無定見、無進退、低級、低能、低俗、消沈、憔悴、萎縮、鈍感、貧相、貧困、貧乏、貧弱、皮肉、皮相、浅薄、軽薄、狭量、過誤、過信、不信、不審、不振、不純、不順、不条理、不慮、不肖、不平、不満、不適、不徳、不機嫌、不自由、不在、不倫、不調、不心得、不注意、不運、不幸、不治、不良, 不相応、不所得、不都合、不実、不毛、不作、不臣、不釣合、不適応、不眠、優柔不断、不浄、不名誉、不足、不正直、不能、不誠実、不詰、不成功、不整合、不善、不仁、不自然、不和、不完全、不吉、不義、不正、逆境、挫折、散漫、冗長、内気、迎合、小心、目和見、叱責、厚顔、破廉恥、野蛮、鉄面皮、饒舌、詮索、下劣、下品、粗野、屈折、卑屈、卑俗、卑猥、色情狂、痴漢、狂気、狂暴、狂妄、狂信、凶悪、凶暴、衝動的、動物的、畜生、暗黒、倒錯、偏屈、嘲笑、嘲弄、椰楡、冷笑、冷淡、冷血、陰湿、陰気、陰謀、陰鬼、陰うつ、陰険、残忍、残虐、残酷、悲惨、悲劇、非情、非常、非合理、非難、凄惨、凄愴、神経質、邪念、邪魔、邪悪、意地悪、諸悪、悪魔、険悪、悪意、悪業、悪徳、悪性、憎悪、悪質、悪口、悪党、悪霊、悪態、毒悪、罪悪、悪玉、悪運、亡霊、虚無、虚弱、虚栄、虚々実々、虚勢、虚構、虚偽、虚業、虎口、義理、世間体、威嚇、脅迫、強迫、強要、劣等感、恣意、身勝手、屁理屈、怨恨、惰眠、懶惰、倦怠、怠慢、骨惜、馬令、老醜、陋習、陋醜、束蹄、障害、制約、限界、抑制、抑圧、強情、強制、強引、強欲、執着、執心、狭量、否定的、緊張、不安、心配、脅威、驚怖、吝薔、尊大、支離滅裂、離散、離縁、離婚、離別、騒動、軽蔑、軽薄、軽々、侮蔑、侮辱、立腹、驕心、断絶、絶望、絶縁、停滞、遅延、事故、損失、損害、加害、被害、害毒、危害、危険、危惧、落胆、落第、落伍、脱落、凋落、安易、安逸、迷信、迷妄、恐慌、反撥、復讐、恐怖、偉ぶり、気むら、気どり、気まま、わがまま、いんちき、うぬぼれ、思いあがり、勘違い、思いこみ、思いすごし、そねみ、しどけなし、ひがみ、ねたみ、すねる、けち、むさぼり、怒りっぽい、慌てもの、せっかち、あきやすい、どじ、ぐち、ぐず、くそまじめ、うすのろ、しまりなし、ずさん、いい加減、ぞんざい、なげやり、あらあらしい、くどい、あざけり、あなどり、せせら笑い、もつれ、もめごと、争い、はりあう、おせじ、ごますり、やきもち、おべっか、こび、へつらい、おもねる、くすぐり、たたり、なじり、責め、ひらき直り、おどし、ゆすり、たかり、わめき、ののしり、いかさま、まがいもの、うさん、なれあい、わからずや、きめつけ、うつつ、ゆがみ、ねじれ、ひねくれ、たぶらかし、すねもの、悪たれ、へっぴり腰、ちっぽけ、ずるい、こすい、あきっぽい、あつかましい、ぶしつけ、恥知らず、恩知らず、はねあがり、おっちょこちょい、おしゃべり、出しゃぱり、のろい、うらみ、つらみ、おちょくり、しつこい、つっぱり、知ったかぶり、がんこ、こだわり、どうも、いずれ、いまに、やっぱり、べつに、どうせ、はず、べき、が、だが、しかし、だって、もしも、まさか、まあ、………

ある詩人が「人間は、いきなり自分の本当の姿を見たら目がつぶれるだろう」といっていますけど、このことがわかる気がします。
つまり、誰もがこのような悪徳を白身の中にかかえこんでいます。これはなかなか認めたくないところです。しかし、自身の中に悪徳がなければ、私たちは外部の悪徳に感応することも対抗することもできません。赤子のように完全に無力になってしまいます。人の善悪は、あたかもオセロゲームのように白黒が表裏一体をなしているとみなければなりません。性格とはこの白黒の分布状態にほかなりません。
仏教の教えによりますと、人間の煩悩は八万四千あるといいます。百八煩悩というのはそれを大まけにまけてもらっての話です。これをさらにしぼりこんだものが「三毒」とよばれるものです。
「貪欲」「瞋恚」「愚痴」がそれです。簡略に「貧・瞋・痴」ともいわれ、それぞれ「むさぼり」「いかり」「おろかさ」を意味します。
この「三毒」に対応する言葉は「三善根」です。「布施」「慈悲」「知慧」がそれで、「施・慈・慧」ともよばれます。それぞれ「ほどこし」「いつくしみ」「かしこさ」をさしています。人生とは広い意味で、精神のありかたにおいて、この「三毒」の状態から「三善根」の状態に、自らを変革していく過程であるといえます。アドラーはこのことをマイナスの状況からプラスの状況へ向う努力とよんでいます。
このように、人生の意義は、自分との戦いを通して、自身の性格を改造することにあります。それはつまり、意識の拡大によって全体性に目覚め、より自由になることを意味するものです。