電脳経済学v3> g自分学> 1-3-3 自信が自信をよぶ

人にはなすべきことが定められています。人生の第一義的な尊さは、その時その時の務めを果していくことにあります。つまり人生は瞬間、瞬間において清算されていかなければなりません。小さいことのつみ重ねが自信となり、それが次の自信を生みます。失われた時は、決して再び戻ってきません。時間には過去も未来もありません。その時があるだけです。過去には記憶が、未来には期待があるとしても、私たちには手の届かないものです。
このなすべきことをなさずに“いずれ”とか“いまに”といったおざなりな時を過せば負債感が生じます。心に空しい穴があいてくるわけです。これがつもりつもってくれば負い目となります。気づかないうちに、自分で自分に借金を背負わせているのです。誰から頼まれもしないのに、自分でわざわざ借金を背負って歩くことはありません。自分の人生が不自由であるのみならず、周囲の人たちもまきこんで、ともに苦しい道を歩むことになりかねません。
私たちは日々格別のことをしているわけではありません。ヤレヤレといったささやかな達成感があるだけです。世に大きい仕事があるわけではなく、小さい仕事のつみ重ねがあるだけのことです。立場がどうであれ一人一人の仕事はつねに平凡なのです。
社会が高度化、複雑化すればするほど、私たちには“高度の平凡性に徹する”態度が求められます。現実社会を信じる態度が高度であり、個人の立場はあくまで平凡であるべきです。認められるとか、認められないとかに、腐心する必要はありません。何より自分の人生を大切にすることです。その時の味方は「愚鈍」「凡庸」「根気」といったものです。この気持をどの程度もち続けることができるか、それだけが問われているのです。

哲学者バートランド・ラッセルは新聞記者に「あなたは自分の信じることのため、生命を賭けるだけの覚悟がおありですか」と聞かれて「とんでもない。それに結局のところ私の方が間違っているかも知れませんからね」と答えたということです。
自信があるとは、また柔軟心があるということでもあります。柔軟心とは“そうかも知れないし、そうでないかも知れない”という考え方ができることです。私たちが社会生活で遭遇する問題はすべて方法論に関することです。方法がそれしかないというのは、一種のとらわれといえるのです。
どの世界にも自説を固執して意見を曲げない人がいるものです。本人は信念のつもりでも偏屈である場合が多いのです。頑固な人とはまた人の話が聞けない権威主義者でもあります。人生経験をつむほどに、頑固になる人と、柔軟になる人とにわかれてくるようです。
物事がどうしてもそうでなくてはならない場合は、意見がわかれることはありません。つまり意見がわかれているということは、当事者が思っているほど、重大なことではないのです。その場合はむしろ情報交換の機会と受けとめるべきでしょう。概して、信念の人は多弁で、自信のある人は寡黙のようです。
このように自信と信念は似て非なるものです。自分が信念をもっていれば、相手もまた別な信念をもっているという簡単な道理に気づくべきでしょう。この信念と信念がぶっつかったとき、私たちには競争という道が残されています。
私たちは色々な意味で競争社会に生きています。健全な社会は自由な競争と公正な評価を前提として営まれます。社会とは競争の場であり、同時に、社会は競争によって成り立っているといえるのです。
スポーツの世界を見れば、それは最もわかりやすいといえます。競争とはルールによる勝負、優劣の判定方式です。競争を争いとみるのではなく、規則による評価方法とみる態度が求められます。社会生活をスポーツやゲームのように楽しむ態度が、先に述べた楽天精神といえます。
社会は政治と経済によって基本的な枠組みが与えられます。民主主義という政治システムは、選挙という競争の上に成り立っています。資本主義という経済システムは市場における競争によって営まれています。
社会主義体制の場合もこと競争に関しては同様です。社会主義国では末端から徹底的な対話や討議がつみ重ねられて、その結果は選挙で決められ、それが順次つみ上げられて中央レベルに至る仕組みになっています。一党独裁とか党の指導ということはあっても、多数決によらないとか、民意が反映されない政治システムはあり得ないのです。
このように、競争の方法は色々あるとしても、競争そのものがない社会はこの地球上に存在しないといえます。
競争社会では二つの点に注意する必要があります。まず競争に参加する精神です。競争を避けることは敗北主義につながります。次は競争の結果としての勝ち負けにこだわらないことです。負けた時の率直な態度はとりわけ大切といえます。それは自身の敗北を認めるとともに、旧敵の価値を認めて、敵に学ぶ度量をさすものです。
私たちは負けたこと自体で自信を失うことはありません。負けを認めないから自信をなくすのです。その人がその人となれるか否かは、この敗北から学んだ教訓をいかに次なる勝利に向けて生かすことができるかにかかっています。
私たちの周辺には多くの“負けず嫌い”の人たちがいます。負けて喜ぶ人はいないにしても、敗北を極度に恐れる小心者こそが敗北主義者であります。それは次のようにいかにも惨めな姿といえます。
誰とでも比較して張り合おうとする。非難めいた批判に忙しい。世間の評判を気にする。体面を保つために虚勢をはる。物かげから他人を操作しようとする。いいわけが多い。何事にも疑い深い。おどしやかけひきにたけている。いつも人を責めている。自分は認めて貰いたいけど人は認めたくない。恥をかいたり軽蔑されることに敏感である。相手に緊張感を与える。思わぬところで強く感応する。自ら努力したり責任をとろうとしない。小さいことをバカにしている。できないことをやろうとする。戦わずして地位を得たがる。周辺にゴマスリを集めている。自分のことしか考えず相手の立場になれない。人を愛せない信じられない。相手に完全を求める。怒りっぽく優越に走る。復讐心に燃えている。
これらの性格は程度の差こそあれ、誰にでもあることです。恐怖に根ざした自信喪失の状態といえるものです。そのままひっくり返した姿が楽天主義といえます。

自信がつくとは判断に誤りがないことです。逆に判断を誤らないことが自信を生みます。だからこそ小さいことのつみ重ねが大切なのです。判断とは経験や知識に基づき、現実の問題を処理することです。先に述べた概念思考と表裏一体の関係にあります。
決断とは大きい判断です。未知の要素が多い中で遠い未来を見極めるのが決断です。決断を確かなものとするのは洞察力であり、洞察力はまた実行力に裏打ちされます。私たちは自分に関する決断は自分でしてよいのです。むしろ自分でしなくてはなりません。「大功をなすものは衆に諜らず」(『戦国策』)とは、この孤独な決断をさすものです。自信があるとは、平素は円満であり、時に臨んで決断ができることです。これはまた指導者の条件でもあります。