電脳経済学v3> g自分学> 1-3-4 適者生存あるのみ

現代は各分野ともサバイバルの時代です。サバイバルとは生存の意味ですけど、むしろ“生き残り”という感じです。この意味ではいつの世もサバイバルの時代といえます。しかし、現今それがとり上げられている理由は、各方面にみられる“手づまり感”によるものです。
サバイバルとは平々凡々に生きることではなく、切り抜けるといったニュアンスがこめられています。嵐の海を乗りきりながら進む船のようなイメージです。困難な状況の中で、しのぎしのぎ“生き残る”ことがサバイバルの本来意味するところです。

「人生であれ社会活動であれ、それは生存競争である。なぜならそれは人間の闘争本能に基づいているからである。野生動物にみられる弱肉強食の世界をみれば明らかたように、この人間社会も自然界と同様に厳しい生存競争の世界なのである。競争の脱落者は自然淘汰の法則により衰亡に至り、この世界から消滅することになる。このようなことにならないように、私たちは……」とゲキをとばしてヤル気を出させる。このようなことは日本中のあちこちで見られそうな光景です。新入社員など、そんなもんかいな、世の中って厳しいもんだなあと思うかも知れません。この人は野生動物や闘争本能に関する理解が、幾分足りないところもあるようですけど、それはそれとして、生物学的に生存を貫く法則をみてみましょう。

「生存競争」生物のすべての種は多産であるので、生存して子孫をのこすのは環境に対する適者であり、不適者は自ら淘汰されるものと見られ、これを同種の個体間の競争とみなして生存競争という。ダーウィンはこれに基づいて自然淘汰説を立てた。原義は生存闘争。その場合には異種間の対立関係を含む。
「適者生存」生物が、生存競争の結果、外界の状態に最もよく適したものだげが生存繁栄し、適していないものは淘汰されて衰退滅亡する現象。
「自然淘汰」生存競争の結果、適者が生存して子孫を残し、不適者は子孫を残さずに亡びることをいう。
いずれも『広辞苑』の定義によるものです。“適者”が生き残り、そうでないものは“淘汰”される、のが“生存競争”である。この三つの用語は“適者”をめぐって、同じことをいっているようです。要するにダーウィニズムはこの限りでは、生き残った結果をして“適者”としているだけです。それならむしろ不適者に光があてられるべきです。私たちの関心は未来に向けて“現在の適者の条件”にあるのです。さもなくば、生き残りの方法を選択することはできません。
そこで、生物学上の「進化」と「突然変異」について知る必要があります。突然変異によって生じたものが、その後うまく生存できれば適者となり、その“広がり”を進化とすれば、何が突然変異を支配しているかが問題として残ります。生物は自身のコピーとして、性質の異なる複数個の“子”を残します。その性質を決める段階が偶然に支配されているのです。これはエルゴート性とよばれるものに関連し、何らかの未来予知意識がそこに働いているように思われます。
自然であれ、社会であれ、乱数的フィードホワードシステムによって、試行錯誤的に未来が拓かれて行きます。「人事を尽くして天命を待つ」とはこのことをさしているものでしょう。
さてこのようなことが、現実社会における適者生存、つまり私たち組織人の昇進や存在とどのようにかかわってくるのでしょうか。ここに至って、先ほどの“広がり”がキーワードとなるように思われます。適者とはどのような情況にでも対応できる者であり、相手に応じたカードが出せる人のことです。
何をもって適者とするか、過去からの類推はある程度可能です。しかし、現代社会のようにめまぐるしい時代にあって、私たちが当面している困難は、将来が必ずしも過去からの類推の上に乗らないところにあります。
社会経済情勢の変動、組織首脳陣の外部からの導入、予測できない事件、これらの前に私たちは完全に無力です。となると、どのような場合でも対応できる幅の広い人材が生き残れる可能性が大きいということになります。このことはまた常識的にもうなづくことができます。しかし一方では私たちは当面の日常業務をかかえています。この将来に対する備えと日常的な業務処理、このジレンマを解消するために、具体的にどのような態度でことに臨むべきでしょうか。

私たちの仕事は多くの場合、仕事を覚える段階、人間関係をつくる段階、創造的な発想が求められる段階と大まかにわけることができると思われます。このことを別の言葉で述べれば、平社員?係長?課長?部長?重役?社長、つまりボトム?ミドル?トップの一連の流れの中で、求められる資質がそれぞれの立場によって異なってくるということです。
中国の言葉に「思うことその位を出でず」とあります。『ピーターの法則』というのもそのまま同じことをいっています。それは「階層社会にあっては、その構成員は各自の器量に応じて、それぞれ無能のレベルに達する傾向がある」というものです。いずれもポストと能力の限界の関係を述べたものです。
ボトムで求められる資質は素直、勤勉、正確といったものでしょう。ミドルでは業務処理能力、器量、倫理観となり、それがトップでは、信仰心、仁徳、美意識といったものになると思われます。それぞれ高等教育、中等教育、初等教育での教育内容に対応しています。
全体の統率者として社会的重責に耐えていくには、初等教育つまり人格がとりわけ重要な意義をもつことは銘記されるべきです。それは隠忍自重、冷静沈着、思慮分別、温厚練達といった徳目をさすものです。これらは基礎教育あるいはそれ以前の段階で習得されたものです。幼少期に身につけたものが、五十歳あるいは六十歳以降に現れることは不思議に思われますけど、人格の根底には宗教心や倫理観があり、専門知識や対人関係はその上に築かれる、とすれば納得できるところです。

立場に応じて仕事の内容が移り変っていくとは“仕事中心?人間中心?概念中心”をさします。仕事中心は説明を要しません。人間中心とは仕事中心をふまえた上でのことです。職業上の人間関係にあっては、職務知識は欠かすことができません。さらにトップに進んでいく人たちには、次に述べる概念思考のマインドがあります。ところが、多くの人たちはこの人間中心の段階にとどまっているように思われます。
概念思考とは格別のことではありません。仕事の内容や人間関係の抽象的部分をとり出して、事業の全体像が動的に描けることです。事業の全貌が体系的に頭の中にはいっていて、条件変化に対応したビジネス・シミュレーションが自由自在にできることです。関連するすべての出来事が“まさにかくの如くなるべきなり”といった姿で次々と眼の前に現れるように“なるべきなり”といえます。
そのためには豊かにして柔軟な構想力が求められます。社会経験のそれぞれの場面で、サブシステムを組み立てていくことです。それが何事であれ、知らない、できない、関係ない、というような消極的態度を排して、少なくとも、自分の責任範囲に関する限り、隅から隅まで完全な理解に達する必要があります。
ライバルとの差がつくのは、この概念思考いかんによります。仕事は決して漫然とやってはいけません。その方が疲れるのです。大根おろしに対する大根のように、仕事に自分をしっかりとこすりつけていくことです。火花が出る位に打ちこまなくてはなりません。それが人間の職業というものです。
その代り一旦職務を離れたら、ゆったりした気持で余暇を楽しむことです。この集中と弛緩の切り換えが肝心です。仕事三昧と趣味三昧は両立する性質のものです。人生の醍醐味とは瞬間瞬間が生き生きとしていることをさすものです。