電脳経済学v3> g自分学> 2-1-3 人は思う通りの人となる

希望の意義がいくら説かれてみても、現実には人は年をとるにしたがって、その夢も希望もしぼんでいくように見受けられます。人が希望を見失いがちになるのは、二つの理由があるように思われます。
第一の理由は“愛の精神に欠ける”ことです。自分だけがかわいいのです。希望から愛をとれば、それは夢となります。夢の世界は現実の厳しさを癒すための夜の避難場所です。夢とは自身の意志が及ばない、幻想とも妄想ともつかない受動的世界といえます。
私たちがもしあることを成就しようと願う場合、それが人のためという明確な目標があれば、驚くほどの力がこみあげてきます。ところが自身の利益のため、さらには報復的下心からことをなそうとする場合、大体においてうまくいきません。人間の意欲や成功の可能性が、その動機に応じてまったく異なった様相を呈してくるのは、考えてみれば当り前のことです。それはこの世界が全体として、相互に生かしあう方向に進んでいるということです。
第二の理由は“希望がなかなかかなえられない”からです。それは希望のせいというより、それに至る方法に問題があるのです。
「暗示」に対する理解が鍵となります。暗示とはあることが理性の判断によらずに、無意識のうちに実現される現象をさします。暗示には催眠術のように、他者による方法と自身でかける方法が知られています。しかし、ここでいう暗示とは、見世物や魔術のことではありません。ここに述べようとする暗示とは、自己啓発によって願望を達成する方法です。その場合、モデルという手本の力を借りる方がイメージをつかみやすいといえます。
最も身近かなモデルの例は姓名です。姓名はその人を象徴するとともに、その人に影響を与えています。たとえば、政治の世界では“一郎”という名前をもつ人が多いといわれています。政治家に限らず、指導的立場にある人には事実“一郎”とか“太郎”というナンバーワンを意味する名前をもつ人が多いのです。
このように私たちは知らず知らずのうちに、自身をとりまく有形無形の環境から大きい影響を受けているのです。印相とか家相とよばれるものも、一概に科学的根拠のない迷信とか縁起とはいえないものがあります。とらわれてもいけないけど、ことさら無視してもいけない性質のものです。この暗示の恐ろしいところは、本人が知らないうちに影響を受けていることにあります。なぜなら知らないことに関しては何の手だてもないからです。
したがって、私たちは暗示のもつ性質を良く知った上で、暗示を好ましい方向に積極的に活用することが肝要です。たとえば、人を育てる立場にある人の態度がそれです。子供の幼少期における母親の役割は決定的なものがあります。良い母親は、無限の可能性を秘めている幼い子供をして、自分はこの世界で祝福され、かつ歓迎されている存在である、と感じとらせています。指導のうまい先生や人使いにたけた上役もそのようにしています。聞き方がうまく褒め上手なのです。そのような人たちは、いつとはなしに本人に自信をつけさせているのです。
しかし大人になってしまえば、いつも褒められてばかりという具合にもいきません。そうなれば、自分で自分を褒めて励ますことです。人生の成功者は例外なく大きい望みをいだき、かつ自己暗示にたけた人たちです。元来、人間は自分の能力や可能性について良く知らないものです。それを自分で引き出して、外界に映し出すには、暗示の門からはいるのが最も望ましいし、そのことによって、私たちは自分を自分以上のものにすることができるのです。
宗教は積極的にこの暗示をとりいれてきました。信じるということ自体が暗示なのです。『法華経』では、これを方便とよんでいますけど、そこにはまさにこの方便の世界が壮麗に描かれています。このことは『聖書』の世界についてもまったく同じことがいえます。
アメリカのある人が、大科学者たちの自叙伝や手紙類を集めて、その共通点を徹底的に調べたところ、それはただ一つ“自発的に宣言していること”だったそうです。これは“プロフェス”を意味していると思われます。プロフェスとは教授のプロフェッサー、知的職業のプロフェッションと同じ語源で“信仰を告白する”というのが原義です。これは“神に対する宣言”であって、これが強い白已暗示となって、偉大な業績を生んだものと思われます。

アリストテレスは「種子が育って樹木となり、小さな雲がやがて空を覆って雨となるように、潜在的可能性が顕在的実体へと変化していくのが自然現象のあり方だ」と述べています。アリストテレスのこの言葉は、人間の潜在意識と顕在意識の関係を説明する場合に用いられます。つまり潜在意識にまかれた種が成長して、現実のものとなって実を結ぶというものです。暗示はこの種子に相当するものです。
まいた種が育つには条件がととのう必要があるように、暗示が成就するにも、いくつかの条件が求められます。それは「自己啓発の方法と手順」として後にかかげる通りです。この場合、最大の障害は否定的な考え方にあります。私たちの心の中には、幸せや成功を望みながらもそのための努力はしたくないというむしのいい考えがあります。これは自我が分裂した状態であって、これでは暗示が実を結ぶことはありません。なぜなら、潜在意識がどちらの指示にしたがったら良いかわからないからです。肯定的な姿勢に基づく精神統一が説かれるゆえんであります。
万物は心の一字に収まり、万象は心の一字から現れます。心とは不思議な存在です。人はなにを思うかによってその人になります。人間が自分の考えた通りの人間になることは、にわかに信じがたいかも知れません。このことは、発想を反転してみるとわかりやすいと思われます。つまり、自分の思う通りの人間にならないとすれば、どのような人間になるのでしようか。
確かに人生は、必ずしも思い通りにはならない面もあります。人はそれ故に悩むのです。しかし思ってもみないことにもまたならないのです。私たちの現在の姿は理由なくそうなったものではありません。過去の思いの結果が現れたものとみなければなりません。もし思い通りになっていないとしたら、それは明らかに思いの方が間違っていたのです。過去の思いの間違いは、今からでも改めることができます。しかし、過去の事実はそのまま認めるほかありません。
「宝くじに当るためには、宝くじを買うことだ」という話があります。宝くじを買わない人には、宝くじは当らない、ということです。可能性がないことと、可能性が薄いことは、完全に別問題であります。運命論者とよばれている人はここをとり違えているようです。
単純な計算を引用してみましょう。百分の一の確率現象は、百回くり返せば一回生起する計算になります。ところが、現実には十回もせずに成功してしまいます。これには色々な理由があります。まず現実世界では独立事象はないということです。つまり、物事は相互に関連しているのです。人間には目的意識があって、過去の経験から法則性を見出して、それを次に生かしていく意識が働いていますから、答は急速に正解に接近するのです。人間は無意味なくり返しはしないのです。一方では、これに気づかない人、認めない人、諦める人もいます。さらに途中で同情や共感といった心理的な要因も作用して、現実の社会現象は、数学的な確率計算を遥かに超えた結果となって現れてくるのです。
自分とは自分の思っている「想念」であり、自分の考えている「思考」そのものであって、それ以外のものではありません。この世の中は、結局自分の思う通りになっていくものです。物事はできると思う人にはできるし、できないと思う人にはできません。物事には「両面性」があって、見る場所に応じて異なった世界が開けてくるのです。それはできると思う人はできる方法を懸命に探すし、できないと思う人はできない理由をあげて、何もしないからです。その人の考え方自体によって、答は最初から決まっているのです。これは真理といえます。ただし、一つだけ条件がつきます。自然の摂理にかなっている場合に限ります。この見極めは確かにむつかしいところです。
成功意識を培う方法は次のような手順となります。簡単なようですけど、それなりに根気はいります。勝利の女神はつねに美徳の持主にほほえむ、これが永遠の哲理であります。

「自己啓発の方法と手順」

1 現在の立場―確かな現状認識に立つ
2 明確な目標―成就したイメージを描く
3 強烈な願望―社会性のある純粋な動機
4 確固たる信念―恐縮しつつ強引さを通す
5 不断の努力―進行形で体に覚えさせる
6 豊かな想像力―自由自在な抽象概念思考
7 謙虚な気持―目的以外はすべて柔軟心
8 祈りと感謝??朝の祈り夕の感謝