電脳経済学v3> g自分学> 2-1-4 生活態度がそのまま人生の姿

ヒットラーの日記が発見されたということで、一時その真偽論争がありました。戦火のさなかを逃げまどうナチの最高責任者の立場であれば、日記や記録を焼き捨てるのが常識といえます。逆に日記をつけるとは、白身の生き方によほどの自信があってのことでしょう。凡人の常識は、このような場合通用しないものかと思われました。ところが日記は偽物とわかり、一件落着となりました。金儲けのために、人の日記の偽物をわざわざ書くとは、世の中には世間騒がせな人もいるものです。
良い生活態度の一つとして、まず日記をつげることをあげたいと思います。仏教に「三業相応」の教えがあります。三業とは、身業、口業、意業をさします。この三つがまちまちではいけないという教えです。つまり、思っていることと、口に出すことと、行いは、いつも一貫している必要があるのです。言行不一致や虚言妄語をたしなめた言葉です。
私たちは時として、心にもないことを口にしたり、売り言葉に買い言葉といった失敗をして、あとになって悔むことがあります。かねてから「口は禍の門」といわれるように、人間の口というのは、体の器官の中で最も軽率なもののようです。私たちの場合は、政治家や有名人のように、記録にとられてマスコミで報道されることはないとしても、失言でその後の関係が気まずくなったり、信用を落したり、ということにかけては同じことです。
この点、書く場合は誰しも考えながら書き、読み返す余裕もありますから、とんでもない間違いを犯すことはありません。日記の効用として、自制心が培われることをあげたいと思います。日記の場合、その性質上、心が乱れていたとしても、その害が外に及ぶことはありません。
日記をつけること自体は、何の困難もありません。しかし、これを欠かさず続けるとなると容易な業ではないのです。平凡なことでも、それを永く続けることによって、値打ちが出てくるのです。自分に関する記録を、自分に代って取ってくれる人は誰もいません。
日記を永くつけていると「自己相関」がわかってきます。人間に限らずすべてのものは、固有な周期の組合せからなる、一定の運動法則に基づいて存在しています。この周期性の発見には、長期間にわたる記録と、対象についての深い関心が必要となります。自分に関心のない人はいないとしても、自分に関する長期間の記録をもち合わせている人は多いとはいえません。人間はいやなことを忘れるという性質がありますから、人間の記憶はあまりあてになりません。大切なところは、この困難な時期にどう対処したかにあるわけです。さらに記憶は客観的証拠能力もありません。
日記を読み返すとき、多くの新しいことに気づくことができます。若い頃はつまらないことを考えていたものだ、あの頃は随分乱れた生活をしていたものだ、という具合です。ところが、当時としては、それが正しいと思っていたのです。それはとりもなおさず、現在でも結構愚かなところがあるのだろう、という思いにつながるのです。自分を理解することは意外とむつかしいものです。その点、日記はモノローグ(自問自答)の場を与えてくれます。日記に覚えさせておくことによって、自身は何事も安心して忘れることができます。
日記に限らず、記録は大切な期間ほど残らないという裏腹のところがあります。目記は自分の記録のみならず、家族に関すること、社会の出来事、金銭の出入りや、手紙、写真などもあわせて整理して残すように工夫すれば、それはむしろ楽しいものとなります。永い人生には思わぬ事件にまきこまれていた、ということもなきにしもあらずです。ところが、その人が長期間にわたって自分とその周辺に関する記録を保存していれば、どのような紛争が起きようとも、有力な味方となります。むしろトラブルにはまきこまれないようになるというべきです。生活態度の正しい人には悪魔がつけこむ余地がないのです。

正しい生活態度とは、規則正しい日常生活をさします。生活のリズムをつかむには、人間の身体と欲求の関係を知る必要があります。人間生活は相互に関連する二つの要求から成り立っています。それは生理的要求と社会的要求とよばれるものです。生理的要求は、さらに自己保存本能に基づくものと、種族保存本能に基づくものにわけることができます。社会的要求は、本来自己保存本能に由来するものですけど、現在ではむしろ、こちらの方が人間の欲求の中心をなしているといえます。
生理的要求は、睡眠、食事、排泄が柱となります。幼児の躾とは、基本的にこの三者を一日の生活の中に、リズミカルに組みこむことにあります。この条件づけは、その子の生涯にわたって影響を与えるといっても過言ではありません。
この「快眠、快食、快通」の習慣が、正則的なフィードバックを通して“快いもの”“美しいもの”“好きなもの”“善なるもの”“信じられるもの”“真なるもの”と一連のものとして取り扱われることが望まれます。良い生活態度とは、自然のリズムにしたがって生理的要求が満足されることです。さらにこの上に、社会的要求がほどよく満足されることによって生活のリズムが完成します。
このような生活態度によって得られた習慣は、その人の人生を規定するものです。私たちの日常生活の大部分は、あたかも内臓の働きのように、無意識のうちに自動的に営まれています。生活の基本的な部分については、何ら神経を使う必要がないからこそ、何か目新しいことに好奇心を燃やしたり、危険を素早く察知して、身の安全を保つことができるのです。
このように、良い生活習慣は何物にも代えがたい財産といえます。
たとえば早起きがそれです。早起きとは、生活の“相”を一時間やそこら早めるだけのことです。睡眠時間を短くするというような注文ではありません。同じ一時間でも、夜の一時間と朝の一時間では時間の質が違うのです。
先に述べた社会的要求は、ここに関連してきます。社会的要求とは「優越の要求」「親和の要求」「承認の要求」「自由の要求」などをさすものです。出世したい、仲良くしたい、認められたい、遊びたいといった欲望です。大人の生活はこの辺からおかしくなっていきます。つまり、これらは相互に満足されないものばかりなのです。
私たちが社会に対してこのような要求をもっていることは、それ自体が生きがいを与えるもので、個人の生活態度のあり方を脅やかさない範囲では、むしろ歓迎される性質のものといえます。ところが、個人が社会に要求すれば、社会もまた個人に要求します。給料上げろといえばもっと働けという具合です。社会という実体のないものが相手ですから、現代人はここに軋櫟を感じることとなります。
しかし、現在の日本のように開かれた国では、政治家は自分たちが選び、財政は公開され、言論の自由は保障され、裁判は公正に行われています。大筋において、社会のどの部分にも秘密も暗黒もありません。社会に不満があることは、白身の要求が過大であることにほかなりません。
私たちの人生観は、この個人の生活と社会的要求、あるいは社会的要求相互間の順序づけに基準を与えるものです。この観点から、その人の人生観は決定的にその人を規定するものといえます。これまでに述べたように、社会的要求は、生理的要求の上に成り立つものです。さらにこの生理的要求は、正しい生活態度の上に営まれるものです。つまり、生活態度は生命に対する畏敬に根ざすものでなくてはなりません。若い時は活力もあり、無理もききます。しかし、不自然な生活は永続きしません。そのつけが、人生の後半生に重くのしかかってくるのです。自分の命さえ大切に扱えない者に、一体何ができるというのでしょうか。