電脳経済学v3> g自分学> 2-2-2 人間―このかき集められたもの

これもやはり古代ギリシャの話です。
ある時、酒場でプラトンが語り、人々は感心して聞いていました。プラトンは調子づいて、さらに人間を定義していいました。「人間とは体に羽毛がなくて、二本足で歩く動物である」人々はさらに感嘆しました。樽に住む哲学者として、また無欲と実践で知られるディオゲネスは、これを聞いて、ニワトリをつかまえ羽毛をむしりとり、プラトンの賛美者たちの前に投げ出していいました。「これがプラトンのいう人間という奴さ」
アリストテレスの場合はこうです。
ある日、アリストテレスは講義で次のように述べました。「人間とは頭の丸い、体に羽や毛のない二本足で立って歩く動物である」翌日彼が教室に出ると、トサカが切られ、全身の羽をそられたニワトリが駆けまわっていました。「誰だ! こんなニワトリを持ちこんだ奴は」アリストテレスが怒ってどなると、生徒の一人が答えました。「ここにはニワトリはいない。そこにいるのはアリストテレスの、いわゆる人間である」
アリストテレスがプラトンの弟子であったせいか、この二つの話はあまりにも似通っています。ちなみに、プラトンはソクラテスの門弟であり、ソクラテスはタレスに遅れること約百五十年後に、この世に現れました。ソクラテスは孔子が没するのと相前後して現れ、釈迦とほぼ同じ時代を生きています。孔子、ソクラテス、釈迦の三賢人が中国、ギリシャ、インドの地に、時を同じくして現れたことは、偶然を越えるものが感じられます。ディオゲネスは、かのアレキサンダー大王をして「もし余がアレキサンダーでなかったら、ディオゲネスでありたい」といわせたほどの大哲人であったと伝えられています。

“人間とはどのようなものであるか”
“人間はどのようにあるべきなのか”
この二つの問いかけは、相互に関連する別問題といえます。事実と価値、現実と理想、あるいは科学と哲学といった対応関係にあります。このことは事実という平面から、倫理という垂直線を導く関係に、たとえることができると思われます。面から線は誘導されても、逆は成立しません。私たちをとりまくあらゆる問題は、この問いに還元されるように思われます。しかしここに至るには、逢かなる道程をたどらなくてはなりません。

人類は動物学上の学名では「ホモ・サピエンス」とよばれます。これは〈知性人〉を意味し、さらに転じて、近代における人間観の表現法ともなっています。数多くの人間規定の表現法が提唱されています。曰く、ホモ・エコノミクス〈経済人〉、ホモ・ファーベル〈工作人、創造人〉、ホモ・ペチエンス〈苦悩人〉、ホモ・ルーデンス〈遊戯人〉、ホモ・リリジアス〈宗教人〉などがそれです。しかし、これらは人間のもつ特定の側面にすぎないとの反省から、ホモ・トータリス〈全体的人間〉といういい方もされます。しかしこれもまた何をいっているのかわかりません。
人間が人間自身の研究を疎かにしてきたのではないか。人間自身の知識は、少しも蓄積されていないし、結局、人間自身は少しも進歩していないのではないか。このような問題提起がされています。その一人がフランス生まれのアメリカの生理学者アレキシス・カレル博士です。ノーベル医学賞受賞者でもあるカレル博士はその著『人間―この未知なるもの』の中で、人間研究の必要性を次のように説いています。

「人間はすべてのものの尺度であるべきだった。人間が真に自分を知らなかったために、われわれの知恵と発明で作り出したこの環境は、人間の体力にも精神にも適しないものであった。これはまったくいけない。こんな世界ではわれわれは非常に不幸である。道徳的にも精神的にも退化する一方である。工業文明がもっとも発達した国家や社会が必ずきまってまず衰えてゆくではないか! そして野蛮状態に戻るのも彼らが真っ先である! 市民の不安と不幸せは、その政治的・経済的・社会的制度から生まれ、特に自身の堕落からくるのである。彼らは、生命の科学が物質の科学より立ち遅れたための犠牲である。
人間を深く正しく知ることよりほかにこの不幸を救う方法はない。自己を知ることによって、人間というものの正体と、その潜在可能性と、それを生かす方法がわかれば、今日の人間の肉体が弱化し、また頭と心が病的になった理由もわかろう。われわれの環境や、われわれ自身を、好き気ままに改造することが断じて許されていないということを説き聞かしてくれるのは、人間に関する正しい、深い知識よりほかには決してないのである。実際、現代文明が生活の自然な状態を一掃してしまった今日では、すべての科学の中でもっとも必要なものが人間の科学なのである」。(『人間―この未知なるもの』アレキシス・カレル)

このことについて、一方の東洋思想はあっさりとしたものです。『荘子』によれば、人間とその生死は次のようなものです。

「人間が生きているというのは、生命を構成する気が集合しているということである。気が集合すると生になり、離散すると死になる。もしこのように生死が一気の集散にすぎないとすれば、生死について何を憂える必要があろうか。」(『荘子』 知北遊篇)

荘子によれば、天下の万物は“一気”に還元されます。だからこそ、聖人は万物が一つであるという万物斉同の理を尊び、生死を区別しない無差別自然の立場に則とることができます。荘子の世界はまさに気宇壮大なものがあります。しかしながら、聖人ならぬ小心者のわれわれ凡夫には、とてもついていけないといった感じもあります。
それに比べれば、仏教の教えはわかりやすいといえます。釈迦は、人間をその形成要素にしたがって「父母所成」「飲食所成」「意識所成」に区分して、人間分析を試みています。
「父母所成」とは「身体髪膚を父母に受け」とあるように、誰にも容易に理解できるものです。このタテ糸をたぐっていけば、そこには歴史の世界が広がってきます。それをさらに遥かさかのぼれば、人間といえども原始生命体にすぎないもので、ついには宇宙のちりとなってしまいます。荘子はそれを気とよんでいます。気とは万物を構成するガス状物質です。
「飲食所成」とは、人はその食べたものとなるということです。これも誰も否定できません。私たちが経験的に知っているように、食物と人間の体質、さらに性格とは密接な関係があります。人間の社会活動は、直接間接を問わず、この飲食所成に関係しています。結局のところ、私たちは食べるために生きているともいえるのです。このヨコ糸の世界は、地理的な広がりを示しています。現在、日本人の口にはいる食料は世界中から集められています。「飲食所成」的には、日本人はもはや世界人となっているのです。
最後の「意識所成」は、意識が人間を形成するというものです。私たちはこれまで、さまざまなことを経験し、いろいろな人に出会ってきました。これによって今日の自分があります。この意味で自分とは、結局“記憶としての自我意識”にほかなりません。仏教では意識作用を視・聴・嗅・味・触の五感によって知覚される五識のほかに、意識、末那識、阿頼耶識を加えて八識としています。五識が情報の受信装置なら、残りの三識は記憶、処理、直接交信装置といったところでしょうか。
人間は環境の産物であるとか、人間は多彩であるといういい方がされます。これは具体的には、自分の中に、過去に出会った他者を見出すことができるということです。他者とは、人に限らず、過去に出会ったすべての事物をさします。そのことは同時に、他者の中に自分を見出すということにもなります。この相互に自他を認めあう関係が理解です。私たちはこの価値、感情、経験、知識を共有、共感、共鳴することによって幸福感を味わうことができます。
善悪にかかわらず、人間は自己中心的存在といえます。私たちの意識は自我を軸として、「中心我」「身体我」「周辺我」と同心円的な広がりをみせます。この意識が及ぶ範囲において、人間には足りないところと、余っているところ、いわゆる片寄り、があることも認めなくてはなりません。社会はこれを相互に補い合うためにあり、かつ、そのような方向で営まれているものです。このことから私たちは“広がりながら混じり合う”という拡散過程を通して、外的世界とかかわり合っているといえます。一方では、それに対応する内的世界があり、それは“統合化”に向かうべき性質のものと思われます。“物質は安定に、精神は統合に向う”これが自然の摂理のように思われます。
科学が人間の本質にどのように迫っていくか、そのことによって私たちの人間観が変るものかどうか、現在の段階では何ともいえません。しかし、この世界がどのようになろうとも、最終的に自分を解き放つことができる者は、自分自身をおいてはありません。それが科学であれ、宗教、芸術、政治、経済、何であろうと、そのための方便にすぎないものです。