電脳経済学v3> g自分学> 2-2-3 セルフ・コントロールのすすめ

前節で述べた「父母所成」「飲食所成」「意識所成」を知れば、私たちが“かき集められた存在”であることは明らかです。私たちは肉体的にも精神的にも、永い年月をかけた環境の産物にほかなりません。しかし、これは無造作に集められたものではなく、そこには一定の法則が働いていて、それにしたがって秩序だてられて集められ、かつ組立てられたものです。人間の「業」とはこのことをさすものです。
この秩序を与えるものは、意識であり、その意識自身もまた時間的に形成されたものといえます。つまり、人間の意識は外部世界の内的再現であり、同時にこの内的世界は、外部世界によって検証されながら完成に向かうべきものであります。これは、人間存在を環境との相互作用として位置づける態度です。このことは、生物学的な系統発生の進化についても、個体発生とその生存過程についても、ともにいえることです。
このことはまた、物理的表現を借りれば、人間とは“空間が時間的に秩序化された自律的宇宙情報システム”といえます。また“時空情報の統一的表現体”ともいえます。自我とか意識とよんだものを、情報とか秩序としています。それは自我意識とは、情報秩序化の状態とする考えによるからです。自我意識は、また意志の根源である無意識により支えられ、そこには感情という生命エネルギーが絶え間なく流れています。『創世記』には神が人間を「神の似姿」として創られたとあります。人間には全宇宙が体現されているのです。

自己実現が、内的世界の外的表現であるとすれば、表現されるべき内的世界がなくてはなりません。この内的世界を構築していく過程にセルフ・コントロールが登場します。したがって、自己実現とセルフ・コントロールは、表裏一体の関係にあるといえます。セルフ・コントロールとは、“自己管理”というよりむしろ“自己抑制”に近いものです。自己抑制による内的世界の構築といえば、むつかしく聞こえますけど、これは“忍耐がないところに知恵もない”ということです。
統一された精神があれば、この世のことはすべてこと足ります。しかし、現実には精神が統一された状態を保ち続けることは、そう容易ではありません。
私たちは社会的安定なしに、より高次の精神的統合に向かうことはできません。ところが、多くの人は社会的安定が得られると、それを守ろうとして精神面の成長を止めてしまいます。それが結果的に、自身を苦しめることとなります。管理能力を越えた周辺我をかかえこんでいるのです。すぎた周辺我を捨てることができないとすれば、管理能力をつける以外に道はありません。これがとりもなおさず、精神面の成長であります。
このように私たちは精神面において安定と成長を交互にくり返すことにより、高次の全体性に目覚めていくことができます。これが意識の拡大です。平たくいえば“世間が広くなる”ことです。このことによって、生命エネルギーの流れをよくすることができるのです。この生命エネルギーは、生きている以上止めるわけにはいかないのです。

人間の悩みには三種類あるようです。それは余っていること、足りないこと、小さいことです。これは先に述べた「三毒」に対応するものです。三毒とは、欲ばり、怒り、無知でした。つまり、欲ばっているから余ってくるし、足りないといって怒るし、自分が小さいことについては無知だということです。
わけても人は、この足りないことについては我慢できません。劣等感は“ないものねだり”の典型といえます。部分的弱点の絶対視が劣等感なら、部分的長所の絶対視が優越感です。どっちに転んでも、本人が気にしているほどたいしたことでもないのです。人のことが気になる、自分がどう思われているか気になるのは、大人になりきっていない過渡期の症状です。一生涯を通して過渡期だったということのないようにしたいものです。

この本質的でないことにこだわると、人生が息苦しくなってきます。そもそも本質的なものなどこの世に存在しないのです。本質的とは、万物が空間的にその“所を得る”ことであり、かつそれが時間的に“時を得る”ことをさすのです。周囲と調和することともいえます。それが何であれ、物や事や人が単独で本質的になることはないのです。
生命が本質的だろうと思われます。ところが人間の体のどこにも“生命の元”としたものはありません。現代医学では人間のどの部分でも交換可能です。生命や心というのは物質相互の働きであって、物質そのものではありません。それは決して物がいらないということではありません。絶対にその物でなくてはならないような物はないということです。物がなくては働きもまたありません。物がポツンとあっても役に立たないということです。物はその相互関係の中で位置を得る必要があります。「ネコに小判」や「ブタに真珠」ではお互いに迷惑ということです。ましていわんや人間様においておや、です。

セルフ・コントロールの方法として、仏教では「八正道」の教えがあります。八正道とは、修行の基本となる八種の実践徳目をさします。八正道については「四諦」との関連において後に述べています。しかしこれはあくまで一般論です。私たちは往々にして、一般的な方法を自分に適用して安心してしまいます。物事はいくら良いものでも、適用を誤ればかえって危険であります。
たとえば、ビタミン剤を飲んでいるから、自然食品をとっているから、ジョギングをしているから、健康は大丈夫だという考えの人がいます。私たちの生活では“何をなすべきか”より、むしろ“何をなしたらいけないか”の方が大切なこともあります。この禁止条項の方に優先順位がおかれることが多いのです。セルフ・コントロールが“自己抑制”を意味するとはこのことをさします。苦手克服が眼目であるべきです。健康管理の第一歩はまず不節制を慎むことです。人にはそれぞれ現在なすべき責務があります。それを果すことによって、自分を飼いならすことができます。日常態としての自我が、本来態としての自己によって飼いならされることが、セルフ・コントロールにほかなりません。