電脳経済学v3> g自分学> 2-3-2 ベターハーフからベストカップルヘ

夫婦生活を円満にするものは“諦め”ではないでしょうか。そのことを通して“忍耐”を学ぶことができます。この“諦念と忍耐”は、人生万般にわたる金言といえるものですが、私たちは最も身近かな存在である配偶者を通して、そのことを体得する機会が与えられています。
このことに関しても、再びソクラテスの知恵を借りましょう。

ソクラテスが弟子の一人を連れてわが家に帰って来ました。悪妻の誉高いかのクサンティッペが例によってヒステリーを起しました。来客の前でテーブルをひっくり返す騒動を演じたのです。弟子はいたたまれず「いくら先生の奥さんだからといっても、あまりにもひどい」といって帰ろうとしました。するとソクラテスは彼にいいました。「この間、君の家に招かれて食事をした時、窓からメンドリが飛びこんできて、食卓の上をめちゃめちゃにしたけど、われわれは怒らなかったじゃないか」

諦めや忍耐といっても、それは暗いものではありません。むしろ朗々たる諦めであり、希望をもった忍耐をさすものです。
ソクラテスは先にふれたように「良い妻をめとれば幸福者になれるし、悪妻をめとれぱ哲学者になれる」ともいっています。これらの逸話が伝えている趣は“モノは考えようであり、賢人にみられる楽天性を身につけよ”ということでしょうか。

自分の女房を、あるいは亭主を“このわからず屋”と思うことは、誰の場合でも一再ならずあるものです。私たちはその時、相手をメンドリあるいはオンドリと思うことはなかなかできません。メンドリのヒステリー、オンドリのカンシャク、ともにこれらは有史以来のものです。これは相手に多くを期待している甘えに原因があり、それが思う通りにならない時の反応といえます。“わからず屋”と思う心は一方的に相手を責めていることであり、本人自身が“わからず屋”なのです。
世間の人として、私たちは自分がからんでいる現実の具体的な問題に出会った時、そう冷静に受けとめることができないのは事実です。ことに夫婦関係のように、相互了解性が前提となっている場合、それに脅威を与える事件がとっさに発生した時、心の準備ができていないために、事態は思わぬ方向に進展してしまうことがあります。
夫婦はまた最も距離の近い他人でもあります。夫婦生活の機微は弛緩と安定性の中にも、軽い緊張感と新鮮味が漂っているところにあります。そこに我慢があれば不自然であり疲労感を覚えます。我慢とは相手を咎めながらもそれを抑えている感情です。一方、忍耐は相手を受けいれて納得している態度です。
十七世紀フランスのモラリスト、ラ・ロシュフーコーは「人間一般を知ることは、一人一人の人間を知ることよりやさしい」といっています。厭世家として、また鋭い人間心理の分析による箴言集によって知られた人です。
事実、私たちが日々直面している人間関係とは、具体的な一人一人の性格が問題なのです。あのタヌキ部長、イヤミの塊であるこの課長、ふてくされているあのオバン、話のわからぬ頑固親爺、いつもこうるさいこのメンドリ、できの悪いこのドラ息子。私たちの毎日はこのようた個性溢れる人たちに取り囲まれていてどこにも逃げ場はありません。逃げてみたところで、そこにはもっと個性的な人たちがいるだけです。
周囲の人たちに不満があるのは、自分自身にそのような悪徳があることにほかなりません。私たちは配偶者に映る自分の姿を通して、そのことを確認することができます。夫婦仲の悪い人は、それを建て直さない限り、何をやってみても駄目なのです。夫婦の不仲が表面化すれば、少々の才能があっても、日本の社会では認められません。
自分の配偶者の顔形、風采、能力、収入について満足している人は誰一人としていません。それをどの程度明らさまにいうかは別として、誰もがシマッタこんなはずではなかったと思っているものです。それなら、誰と取り換えるかとなると言葉がつまってしまいます。それが夫婦の正常な姿であります。
夫婦の間のことですから、どうしても我慢ができないとなれば、最後には離婚もやむなしとなりますけど、そのような人たちに共通してみられる一つの特徴があります。それは我執が強いことです。我執が強いとは、自分の主張、相手に対する期待、ともに一方的であることです。夫はこうあるべきだ、妻はこうあるべきでない、という自分なりの一般的な配偶者像についての思いこみが強くて、それを相手に強要しているのです。それが通らないと幻滅となります。そのような愛は最初から幻想だったのです。愛という名の“自分の都合”にすぎなかったのです。愛とは“相手の都合”にしたがうことですから、丸反対です。
悪魔とでも結婚できる。悪魔をして仏にして見せようというのが真実の愛なのです。ニワトリでなく、人間の姿形をしていることは、愛の対象として最高の部類に属しているのです。“夫”はこうあるべき“妻”はこうあるべき、というものはありません。つまり“夫婦”はこうあるべきとなるべきです。夫婦の間は“相補的”関係で成り立っています。夫婦の間に境目がないようにならなくてはなりません。つまり夫婦とは相互に自分の鏡の裏側を見ているような関係にあるのです。
このようなことから、人間関係の原型が夫婦関係にあることは明らかです。それが家族関係、職場の人間関係に拡張されるのです。夫婦は社会の原単位をなすものであり、それは一対の男性代表と女性代表によって成り立っています。それぞれには、男性原理と女性原理が働いています。それらを支配するものは、拡張本能と存続本能、あるいは社会性と永遠性といえます。そうなるとこれを統合するもう一つの原理が必要となってきます。

スイスの精神科医であり、分析心理学の創始者であるユングは、男性の無意識中にある女性的なるものをアニマ、女性の無意識中にある男性的なるものをアニムスと名づけました。彼はまた人間の無意識を、個人的無意識と普遍的無意識に区分しました。個人的無意識はかつて個人が経験したもの、つまり意識にのぼったものが忘却、抑圧されたものです。いわば、失われた諸記憶の澱であり、人格の影に当る部分といえます。普遍的無意識は、超個人的無意識とも、また集合的無意識ともいわれ、親族、民族あるいは人類に共通した無意識で、意識化されたことのないものをさします。
ユングは、各民族にみられる神話、宗教儀式あるいは病者にうかがえる幻覚妄想相互の間に、深い共通性があることを見出し、この神話的イメージを生み出す力を元型と名づけました。彼は元型を、人類が古代からくり返し行っている行動様式、つまり共通体験のつみ重ねによって形成されたものと考えました。太陽の昇り沈みはその代表的な例といえます。元型には、アニマ、アニムス、太陽のほかに、飢え、影、太母、樹木、悪魔、自己、ペルソナ、などがあげられています。

元型は感情、魂、精霊、心のエネルギーを生み出す源泉であり、普遍的無意識もまた、元型のもつ潜在的な力によるものです。それは恐怖であり、欠落感であり、郷愁であり、人間行動に原動力を与えるものです。私たちは夢によってそれを知ることができます。夫婦の合性も結局のところ、このアニマとアニムスの相互関係によって定まっているものかも知れません。この世の中は肝心のことはわからないようにできているようです。

夫婦は元々不完全な片われ同志で、「割れ鍋に綴じ蓋(とじぶた)」とはそれを表わしたものです。それを英語ではベターハーフとよびます。ベターですから、最初はまずそこそこの程度から出発して、時間をかけて完全な状態に仕上げていこうとする態度です。最初から最後まで相手が完全であったとしたら、私たちの人生は随分と味気なく退屈なものとなり、何もやることはなくなってしまうでしょう。相手が“神様”でなく“上様”だったから良かったのです。
この世のことは、それが何であれ“夫婦和合して成らざるはなし”といえます。永い人生航路の途中では、幾度か危機が忍び寄るかも知れません。その時、私たちは初心に帰って、愛とは何か、自分の価値観によって相手を量っていないか、何の罪もない子供の将来にどういう影響を与えるか、一時的な衝動で自身の心に傷が残らないか、このような点について、心の再点検をする必要があると思われます。夫婦の契りは親子の縁より強いといわれます。ベストカップルとは完全な夫婦であり、過去と意識を共有する、余人をもって代えられぬ存在といえます。そこには男性と女性ではなく、二人の同じ人間がいるのです。「偕老同穴」をもって人生をまっとうするには、忍耐と諦念を通して、真実の愛に目覚めることをおいてはありません。