電脳経済学v3> g自分学> 2-4-2 健康は心身一如から

健康もまた誰もの願いであり、健康なくして幸福もあり得ません。
健康は自重自愛の精神に始まるものです。孔子はこれを「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」と教えています。節度と摂生の心得なくして、永い生涯にわたり、自身の健康を維持していくことはできません。自分の心身さえ管理できない者が、どうして他の者を管理できるでしょうか。
健康は失われて有難味がわかる点において、親や水・空気と同じようなものです。病気の種類は無数にありますけど、完全な健康状態は一つしかありません。しかもそれは意識されないものです。したがって、アンチテーゼとしての病気とその原因に光をあてることによって、健康を際立たせることができます。これは、幸、不幸の関係に似ています。

ローマの雄弁家セネカは「人は死ぬのではない。自殺するのである」といっています。自身は
94歳まで生きたといわれます。“人は不摂生をつみ重ねて、白ら寿命を縮めている”これがその意味するところです。耳の痛い言葉というべきでしよう。
今日においては、かつてみられた疫病や栄養不良による病気は克服されました。それにかわって、現代の病気はむしろ社会的な原因によるものです。それは人間関係からくるストレスであり、それに起因する生活の乱れです。人間関係は本来喜びであるはずのものです。ところが現代においては社会が複雑・高度化してしまい、人間は自ら造ったものに引きずられていくようです。自分をよく見せたいとか、失敗して笑われたくない気持が強すぎて、神経の無駄使いが多いのです。あるがままでは間に合わない、そこに無理が生じるように思われます。このめぐりめぐった結果が、病気という形で現れてくるのです。つまり、病気はその人の考えや人生観に問題があることをつげているものです。
健全な人生観をもって、正しく生きている人は、病気なんかには決してならないのです。多くの人はこの原則を認めようとしません。曰く、病人に対する思いやりがない。苦労が足りないからそんな勝手なことがいえる、という具合です。人間は本来健康であるべきであるという理想と、病気で苦しんでいる人がいるという現実があります。この両者を混同すると“病的な考え方”に迷いこむことになります。現実は自分を正当化するためにあるものではありません。
医者泣かせの病人に二通りあります。病気をつくる弱気人間と、病気を認めない強気人間です。病気になることは、その深層心理において、周囲の人たちに大切にされたいという願望があります。愛に飢えている状態です。裏返せば、愛に目覚めた人は病気にならない道理になります。

あらゆる健康訓は「規則正しい生活をすること」に集約されます。健康の問題は、この簡単な原則の実践いかんにあります。健康な人にとって、健康法なるものはありません。長寿者の生活をみても、食べたいものを食べ、寝たい時に寝る、自然随順の生活を送っているだけのことです。大人の病気は不自然な生活の報いにほかなりません。
ところが、一病息災という言葉もあるように、現実には多くの人が、何らかの持病や身体的な不都合に悩んでいます。それをだましだまし、何とかその日その日をしのいでいることも事実です。病気が個別的であれば、私たちは一般的な健康法の中から自分に適したものを見出していくほかありません。それは物事の基本と応用の関係に相当するものです。
禅では「調身・調息・調心」が説かれます。これは健康法の基本をなす生活態度として、姿勢、呼吸、心の順に整えていくものです。姿勢は誰の場合でも、永い間の習慣が固定したものですから、なかなか気づきにくいし、直りにくいものです。姿勢の模範として声楽家をあげたいと思います。声は単なる音ではなく、人問の感情の表現であります。澄んだ心から、きれいな声が出るには、正しい姿勢が求められるのです。この意味からも、人間の姿勢、呼吸、心が一体であることが理解できます。心には直接手がつけられないので、視覚的であり、かつ物理的にもわかりやすい姿勢から正していこうとするものです。次の呼吸法は、深くゆっくりが大切です。姿勢が正しく、気持が落ち着いていれば、自然とそうなります。
次に、健康状態のチェックには「快眠・快食・快通」があります。この生理的なリズムは、規則正しい生活の結果でもあります。私たちの社会生活はこの上に築かれるものです。
再び飲食所成にふれるまでもなく、人間は性格も体質も食物に強く支配されるものです。健康と食事の関連は極めて密接なものがあります。食生活に関しても簡単な原則があります。それは“少量、多種の食物をゆっくり、楽しくとること”です。食べることはしばしば生きることと同義にあつかわれます。日本人の食事態度はかつての貧しい時代、あるいは軍隊生活の名残のせいか、概して貧相にみえます。
人間の二大本能に基づく、食生活と性生活はゆっくりと時間をかける工夫がないと、何のために生きているかわからないだけでなく、いい知恵も湧いてこないというものです。なお、飽食、過食の弊害が説かれていますけど、これは早食いと偏食によるものです。その原因は精神的イライラにあり、さらにその原因はわがままな性格にあります。

兼好法師は『徒然草』の中で、悪い友達の条件に健康な人をあげています。歴史的にも偉大な業績を残した人に、病弱の人が意外と多いことは興味がもたれます。それは、病気になると人の心がわかるということです。病気になれば自分の自由がきかないので、一方的に人の好意にすがるほかありません。そのことによって、人に対する頼み方を体得したり、自身でも深く考える習慣が身につくのです。
病気を通して、身に泌みて健康の有難味がわかり、生命に対する畏敬の念が湧き、病床で世話になった報恩の気持が働き、生きていることに自然と感謝できるようになり、さらに自身の体をいたわり、つまらぬことに意地を張らない、素直に負けたり謝ることができるなど、いわゆる人間ができてくる人が多いことは事実です。しかし、何事も経験とはいえ、闘病体験だけはあえて求める性質のものではないといえます。