電脳経済学v3> g自分学> 3-1 人間は努力する限り迷うもの

電脳経済学v3> g自分学> 3-1-1 スランプは誰にでもある

孔子『論語』(衛霊公第一五)の中で「どうしようか、こうしょうか、と問わない人間は、私にもどうしようもないことだ」といっています。現代の言葉では、問題意識のない人は指導のしようがないということでしょう。この「どうしようか、こうしょうか」という問いかけは、また迷いでもあります。それはむしろ人間の正常な姿といえます。
ゲーテは「恋にも迷いにも縁のきれた人間は、墓に埋められてしまうがよい」といっています。ゲーテはまた『ファウスト』第一部「天上の序曲」の中で「人間は努力する限り迷うものである」ともいっています。迷いを発展的に捉えた先哲のこれらの言葉は、私たちを勇気づけてくれます。
誰にでも通用する、あるいは生涯にわたって適用できる人生上の普遍的な法則はこの世にありません。それ故に、私たちはそのつど具体的な問いかけを発し、その中から自分なりに答を見出していくよりほかに方法がありません。
しっかりした自信なり信念に基づいて行動している人がいます。しかし、それは外面的ないし一時的な強がりとみなくてはなりません。物事はつねに紆余曲折をへながら展開するものであり、その本質は時に応じて見え隠れするという性質があります。未来に対する漠然たる不安があるのは人間本来の姿であり、それだからこそ、未然に危険を防ぐことができるのです。
このように、人間は誰でもつねに確信をもって生きているわけではありません。もし、私たちの人生があたかも天体の運行のように、寸分の狂いもなく営まれるとしたら、確かに迷う余地はありません。しかし、それはきっと味気なく退屈なものに違いありません。かといって、すべてが偶然に支配されて、何がどうなるか皆目見当がつかないというのもまた困りものです。
私たちの人生はこの「必然」と「偶然」の両極端の中間域で営まれていて、そこにはおのずと選択可能な幅があります。人間の自由意志に基づく判断が格別に重要な意味をもつゆえんであります。したがって、迷いとは、情報不足の状態の中にあって、より確かなものを求めて止まない人間の、自由意志による価値の選択過程をさすものといえます。それはよりよく生きたいと願う人間性の現れにほかなりません。ここに確実性とは、偶然性を分母、必然性を分子とする商であり、人間の嘆きはこの分母の全貌がつかめないところにあります。

人生はしばしば旅にたとえられます。旅には陸の旅、海の旅、空の旅があります。陸上の旅行と海上の航海の対比を通して、迷いの実態をみてみましょう。
迷いとはその言葉の通り、旅に出て道に迷うのに似通ったところがあります。私たちはいったいどのような場合に道に迷うのでしょうか。慣れないところに行った、本来の道からはずれた、仲間とはぐれた、聞く人がいない、地図をもっていない、目的地がわからない、現在位置が確認できない、何となく心細くなってきた、迷いとはこのような場面をさすものと思われます。頭の中の地図と、現場の状況が一致しない状態といえます。
このいずれの場合にも共通するのは、本来の道を見失った状態であることです。迷いとは、環境の変化に一時的についていけない状況にほかなりません。新しい世界にふみこめば誰でも迷います。しかし、この新たな経験なしに、発展も前進もないことは明らかです。このように、可能性があるからこそ迷うという、迷いのもつ発展的な面を評価したいと思います。迷いが青年期に多いことは、とりもなおさず、春秋に富むことの証左でしょう。
陸上では、迷いとは本来の道を見失った状態でした。ところが海上には道なるものはありません。少なくとも眼で見ることはできません。したがって、航海では航路よりもむしろ“目的地”の方が意味をもってきます。目的地によって航海の条件そのものが、まったく異なった様相を呈してきます。
これを人生にあてはめれば“人生目的”であり、それは“この世に何をしにきたのか”という問いかけです。率直にいって、多くの人にとってこれは難問といえるものです。道に迷うのが局所的、一時的とすれば、海の迷いは全面的であり、生涯にわたるといえます。
このことから、仏教では人生そのものを迷いとみるのです。この世は迷いの海であり、仏法という慈悲の船によって、安全に彼の岸まで渡すことを「迷津慈航」といいます。
このことに関連して、仏教の根本的な考え方を伝える「筏のたとえ」があります。釈迦と修行僧の問答形式となっています。

「修行僧らよ、たとえば街道を歩み行く人があって、途中に大水流を見たとしよう。そしてこちらの岸は危険で恐ろしく、彼方の岸は安穏で恐ろしくないとしよう。そのときかれが思うに、こちらの岸から彼方の岸に行くのに渡し舟もたく、また橋もない。そこでその人は草・木・枝・葉をあつめて筏を組み、その筏によって安全に彼方の岸に渡ったとしよう。かれが彼方の岸に達したときに、次のように思ったとしよう。すなわち『この筏は実にわたしを助けてくれた。さあ、わたしはこの筏を頭にのせ、あるいは肩にかついで、進んで行こう』と。汝らはそれをどう思うか。かの人はこのようにしたならば、その筏に対して為すべきことを為したものであろうか」
「そうではありません。尊師よ」
「そのように、救い渡すためにこの筏のたとえをわたくしは説いたのである。実に筏のたとえを知っている汝らは法をもまた捨てるべきである。いわんや非法をや」
(『原始仏教』 中村元 NHKブックスより)

若干の注釈をつけ加えてみましょう。
大水流とは大河の流れを煩悩の流れにみたてたものです。彼方の岸は彼岸であり、悟りの世界を意味します。仏教では人間を因縁による集合体とみます。つまり私たち自身をあらしめているのは、先祖、家族、食物、教育、知識、経験といったもので、これらが筏の素材をなす、草・木・枝・葉に相当します。筏とは仏法をさします。つまり、自分の因縁によって仏法を修得しなさいということです。仏教では、自分が生かされている意味に気づかせるために、その境遇が与えられている、とします。因縁というその人なりの素材によって自分の筏を組み立てて、迷いの海を渡って悟りの世界に至りなさいということです。筏が仏法と自身の双方をさしているところに、仏教の根本思想をうかがい知ることができます。
さらに仏教の超越的な厳しさと真髄は、悟りの岸に達したならば、その仏法をも捨てよと説くところにあります。この究極における自己否定が「慈悲」であります。慈悲とは絶対的、無条件の愛を意味するものです。

仏教に限らず、世界のすべての宗教が最終的にめざしているものは、人間の救済にあります。各宗教はそれに至る一つの局面を示しているにすぎません。山に登るのに登山道は数多くあるように、宗教も宗派も数多くあります。この世に良い登山道や悪い登山道があるわけではなく、その人にふさわしい登山道がその人にとって良い登山道となるだけのことです。どの宗教によるかは、出会いによるものです。これは私たちが宗教を選ぶというより、宗教によって私たちの方が選ばれるといった性質のものでしょう。
宗教は知識ではありません。人間一般の救済より、その人自身の救済だけが問われているのです。誰もがそれぞれ個別の問題や制約をかかえています。それは本人が解決しなくてはならないものです。孤独についての深い理解なしに、宗教の道を歩むことはできません。仏教ではこのことを「独生独死独去独来」といいます。
人生はとどのつまりは、誰も助けてくれない。誰を助けることもできない。一人で生れて、一人で死んでいくだけなのです。人間活動のあらゆる局面は、本人にこのことを気づかせるためにあります。最終的には“自分で気づいて、自分で改めて、自分で自分の人生をまっとうする”ことに結びつかなければなりません。