電脳経済学v3> g自分学> 3-1-2 そんなに輝くことはない

未来に対する漠然たる不安が迷いたら“こだわり”もまた迷いとよばれるものです。色香に迷い、金に迷い、酒に迷い、という具合です。さらに、地位に迷い、子供に迷い、信仰に迷い、世に迷いの種がつきることはありません。このように特定の対象をせっかちに求めたり、盲目的に頼る心もまた迷いであります。
確かなものを求めるのが迷いでした。ところがそれに頼ろうとするのも迷いとなれば、これは困ったことです。この世でしっかりと頼りになる堅牢にして恒常なものはないかと、あちこちたずね歩いてみても何もありません。とにかく何かに頼ろうとする心が迷いですから始末に負えません。
そうだ! モノに頼るからいけない。不動心というではないか。自分の心さえしっかりしていればよいのだと気づきます。ところがどうでしょうか。自分の心がしっかりしていれば、最初から迷いなどはないはずです。
人間の心は自分でもよくわからないというのが本当の姿です。一秒後に自分が何を思うのかさえわからない始末です。万物が変転極まりないのと同様、人間の心もまたひっきりなしに流れているのです。何が流れてくるか自分でもわかりません。それを気にするのが迷いです。不惑とは肚を据えることではありません。“あるがままに”やりすごすことです。そっくり自分を自分に委ねて、何も思わないことです。ところがこれがまた容易な業ではありません。

私たちが生きているこの現実は、相対的な世界です。相対的とは物事が比較の上に成り立つことをさします。その限りではすべてが平穏なのですけど、ひとたび自分が関係してくると、この比較からとめどもない苦しみが生じてくることになります。私たちはことあるたびにありとあらゆる比較をして、優越を味わったり、屈辱を感じたりして、神経をすりへらしています。個人のみならず集団でも、絶えず勝った負けたと張り合っています。
比較は人の特定の部分をとりあげて、それについてなされるものです。ところが、人間はある面ではすぐれているけど、別の面では劣っているといった按配で、比較になじみにくいものです。よしんばあらゆる面で周到な比較がなされても、人にはそれぞれ異なった因縁や役まわりがありますから、それをくらべてみても仕方のないことです。
比較が感情をともなえば評価となります。評価には、する立場、される立場があります。人間には自尊心や主体性がありますから、本人の意志に反して、手段や方法として使われることに抵抗を感じない人はいません。人を使う立場にある人は、この人間性の尊重に気を配る必要があります。本人の意欲によるか、外部からの強制かによって、仕事の結果は天地の開きとなります。
一方、使われる側にも、何がしかの心得が求められます。それは“輝こうとしない”ことです。母親的態度といってもよいでしよう。誰でも本心では認められたい、ほめられたいと思っています。しかし「縁の下の力もち」という言葉もあります。自分のことは、笑われても、バカにされても、ヘンな人だと思われてもいい。そのことによって、八方円満に収まるのであればそれでよいではないか。身近な人たちが幸になれば、それでよしとする態度です。
自分のことは忘れて、人のために尽くすことができるのは大した器量人です。人間の成長には屈辱体験はとてもよいコヤシになるのです。愛の精神が豊かにあれば、人間は屈辱によって潰れることはありません。むしろ、いやます意欲がかきたてられるというべきでしょう。この意味からも、正しい理想、正しい人生観はつねに心の支えとなるものです。
本来、人間の自尊心は自分と自分の関係ですから、外因的な条件には影響されません。それに対して、体面は自分と他者との関係ですから、つねに軌道修正しなくてはなりません。この傷つきやすい体面を維持していくには、強い抑圧を必要とします。抑圧とは不快な考え、非道徳的な考えを意識から追い出して、心の奥底におさえつけている状態です。
自分に自信のある人は、他人と張り合いません。優越しようともしないし、体面が気になるということもありません。エネルギーはいつも生産的な方向に流れているのです。人に受けいれられようとするより、むしろ人を受けいれようとするのが大人の態度といえます。そのことによって人間も大きくなり、おおどかに息をつくことができるのです。自分は認められたい、しかし人は認めたくない。これでは毎日が息苦しいものとなります。人間が小さいと欠点は大きくうつります。人間が大きくなると、それは個性になってしまいます。

自分の評価は自分でしてよいのです。もし自分の評価を全面的に他人にゆだねてしまえば、いつもおびえていなければなりません。萎縮した人生になるのです。そこに人生の喜びや安らぎはありません。他人の評価はあくまで参考程度です。誰でも自分に関することは隅々まで責任があります。ところが他人は本人にかわって最終的な責任はとれないのです。
他者を意識して輝こうとすれば、おのずと苦しくなります。物事は自分が納得できれば、それでいいのです。世の中、盲千人目明千人といいます。また毀誉褒貶相半ばするをもってよしとする、ともいいます。