電脳経済学v3> g自分学> 1-1-3 職業とは厳しいもの

プロ野球は見せるスポーツとして、日本で最も人気のあるものといえます。プロ野球の楽しみかたは、本人の自由とはいうものの、そこにはちょっとした見所があります。それはチームとしてピンチをどうきり抜けるか、選手がエラーをどのように処理するかといったところです。
勝負に強いということは、派手に勝つことではありません。しぶとくねばってなかなか負けないのが強いのです。それは逆境にどう対処していくか、つまり危機管理の術を心得ているかどうかということです。
ブロとアマの違いは、ミスに対する態度にあるとされています。ここにいうミスに対する態度には二つの含みがあります。その一つは、どのような仔細なミスも我慢できないとして、その原因を徹底的につきとめて、二度と同じようなミスをくり返さないことです。他の一つは、ミスに対して被害を最少限にくいとめるべく、すばやく次の手立てをくり出せることです。基本ができていれば、反射的に応用動作がきくものです。
プロ野球の人気の秘密は、そこに社会のモデルを見ることができるからです。たとえば、セオリーに則した一連の動作をこともなげにやってのけるスマートさ、ポジションを守るための厳しい競争関係、健康管理のための自制心、徹底した実績評価主義、などがそれにあたります。
誰もがその道のプロとならなくてはなりません。プロの条件はしたたかさと責任感にあると思われます。立場を問わず、人間の値打ちは最終的には、その人が責任というものをどう考えているかによります。責任感があれば意欲も湧いてきます。そのことによって健康にも注意するし、したたかさも養われてくるし、全体に対する配慮もできるようになってきます。責任感とはまた使命感の現れであります。自分が何をしにこの世に現れてきたか。何によってその存在価値があるのか、といったことです。義務感をともなったり、結果を期待するものであってはなりません。責任感とは達成感以外何も残らない無条件のものです。
責任感があるとはまた他の人を頼らない気持でもあります。人間はその時その時になすべきことをしていれば、人のことは何も気になりません。あの人はあのような性格の人だとか、楽しそうだなと見えてきます。不平や不満をかこつことは、自ら責任感がないと叫んでいるようなものです。つまり、責任感があるとは円満であることです。問われていることは自身に対する態度であって、それを他者と関係づけるからややこしくなるのです。

教育を受けた人は何事も頭の中で処理しようとします。何事につけ“かくあるべきだ”という思いこみが強いようです。経験の足りないところを知識でカバーするのはよいとしても、世の中にはしきたりや慣習があります。それは一見非科学的のようでも、それなりの根拠はあるものです。この世のことは、やってみないとわからないという試行錯誤的な要素が意外と強いのです。社会自体が経験の集積によって成り立っています。そうなるはずのところがそうならないことによって、自分の至らなさに気づく機会が与えられているのです。
仕事はまず体で覚えるものと知るべきです。しかもかけ出しのころは足で覚えることです。下積みの現場経験をじっくりと足で積んでいると、それが元肥となって生涯を通してジワリジワリと効いてきます。この無駄の効用といったことが若いうちはよくわからないのです。
次には、使うべき中心を少しづつ上の方に移していくようにします。足から手、手から頭部といった具合です。全身をまんべんなく使いながらも、使うべき中心が上方に移行していくことになります。人間は動く記憶装置といえるものです。体に覚えさせることによって、記憶を苦痛なく確実なものとすることができます。知識、経験いずれに片寄ってもいけません。体得するとは頭と体の双方を同時に用いることです。
次は型を学ぶということです。あらゆる稽古ごとには基本的な型があります。いわゆる定石です。これは仕事についてもまったく同じことがいえます。最初はあまり理屈をいわずに、先輩の教えにしたがってこの型を覚えることです。型とは永年にわたる経験の集積から得られた物事の筋道ですから、これに文句をつけても始まらない性質のものです。
先輩の指導を受けるには、その人を尊敬することです。尊敬できなければ、何かいいところを見つけるようにして、その人間を好きになる必要があります。それなくして、知識とか技術だけを学ぶわけにはいきません。指導のされ方のうまい人は、人間的に円満な人が多いようです。使われ上手がそのうちに使い上手になっていくのです。
型を覚えたら、それを実際に用いることによって、自分のものにすることです。実践の段階ともいえます。基本型がうまく使いこなせて、その応用動作がきくようになれば、最後は自分なりに研究して改良型をあみ出すことです。この研究心はとりわけ大切です。
この学習−実践−総括の過程を、ラセン階段を登るようにくり返すことによって、ついには自分なりの理論を生み出すことができます。植物が種を残して枯れていくように、人間も経験に基づくノウハウや理論を、後継者に伝えずにはおれないという、本能的な習性をもっているように思われます。誰の場合も残すべき何物かがあるはずです。

私たちは社会人として、職業人として、家庭人として、一人一人が期待された存在です。誰が誰に何をどう期待しているのか具体的に示すことはできないとしても、社会は相互に暗黙の期待で成り立っていることは明らかです。誰もが場所を与えられているゆえんです。
一人一人が職業人として期待されているとは、各人が与えられている持場に応じて“そのことなら安心して任せられる人”になることです。それは本人の側にたてば、職業を通して自己実現をはかることとなります。職場はまさしくその場を与えてくれているのです。
このことについて、徳川の初期の三河の武士である鈴木正三は次のようにいっています。正三は関ケ原の合戦や大阪冬の陣で武勲をたてましたけど、四十歳をすぎて出家しました。正三の主張は、日常生活の中で仏教思想が実践されるべきであるというもので『四民日用』という著書の中で、武士も農民も医者も、みな自分の職業を通じて、悟りを開くことを説いています。正三は江戸時代にはまれな近代的感覚の持主で、独自の禅宗的倫理観を打ち立て、各人がその職業において仕事三昧に徹すべきことを強調しています。正三はこのことを「土に成る」といっています。「土地成金」になると、とり違えている人もいるようで、正三も嘆いていることでしょう。

囲碁に「着眼大局、着手小局」という格言があります。大局観をもって、細部を大切にせよ、という教えです。しかし、この言葉にはそれ以上の深い意味が隠されているように思われます。
それはこの言葉の中に、近年における大脳生理学の成果が遺憾なく反映されていることです。人間の脳は左右両半球にわかれていて、そこに言語活動による機能分化が見られます。つまり、左脳は言語脳ともよばれ、言語を中心とする論理機能を、右脳は非言語脳あるいは音楽脳といわれ、直観、パターン認識、創造などの機能を司っています。左脳はディジタル情報、右脳はアナログ情報を分担しているのです。
着眼大局とは、視覚を通してこの右脳によって、パターンをマクロにつかむことをさします。囲碁では形とか模様といわれるものです。着手小局とはそれを受けて、左脳による論理演算をミクロに行うことをさします。筋を読むといういい方がされます。全体と部分の関係が理解できれば、その間を自由に往復することが可能となります。