電脳経済学v3> aご案内> a70コメント集> ct01 コメント1

C1−1:「代謝モデル」の考え方は、興味深い論点を提供しているように思われる。ただし、経済過程を生態系とのアナロジーで考えるという視点には疑問を感じる。むしろ経済過程が生態系の部分システムなのに自己増殖的に肥大し、親システムである生態系を破壊するという関係を基本に据えるべきではないか。

C1−2:しかし、たとえば正財の稀少性と同時に負財の「過剰性」を考え、労働を情報移転とエネルギー変換の複合と考えるなどの論点には、筆者(コメンテーター)も同感である。この点は、労働とは何か、とか、労働価値説の妥当性ないしそれに基づく資本主義批判の妥当性いかんといった問題を再検討するうえでも有効であるように思われる。


生態系と経済系のアナロジー 経済理論の相互関係

図ct01-1 生態系と経済系のアナロジー

図ct01-2 経済理論の相互関係



R1−1:物理学の立場から寄せられたこのコメントについては、重大に受け止めて約9年間私なりに考えてみました。その結論はやはり「梵我一如」における「存在と認識」の関係に帰すると思われます。これを図ct01-1生態系と経済系のアナロジーで示しました。生命系の立場から見れば人間も動物の一種に過ぎない。つまり人間も自然の一部であるにもかかわらず、万物の霊長と称して勝手に生態系や環境つまり自然を破壊している。この自己破壊の論理は御指摘の通りだと思います。

では、なぜそうなるのかと問えば自然ないし生態系は物質循環を完結させているが、人間の生存様式としての経済系の仕組みは生産から消費への一方通行として組み立てられています。これは際限なくため込むという資本主義的蓄積と関連しているように思われます。したがって、従来の生産系と消費系に新たに分解系を加えて物質循環を完結させる必要があります。これに対応して、経済過程も従来の閉鎖系2部門モデルから開放系3部門モデルへの再編成が求められます。これが代謝モデルの基本的な主張であります。

さらにつけ加えれば、地球内で「物質循環」が成立するには、地球と宇宙との間で「エネルギー代謝」が存在しなくてはならないし、これは同時に「エントロピー処理」を要請します。そして、これらの営みの帰結は「情報蓄積」の形をとります。この情報蓄積は生命系の場合は「進化」であり人間系の場合は「文化」に相当します。両者の差異は、人間の生存が理性の座と呼ばれる大脳新皮質に依存することにあります。ここに理性とは上記の文脈から言えば存在と認識の対応関係を指すことになります。

現在のところ私たちの生態系に関する知見は限定されたものですが、その全貌が解明されてくれば経済系もそれに対応した形に組み替えられて行くものと思われます。リサイクルは物質循環の身近かな例と言えますが、私の場合、職業の関係から水循環ないし水管理の見地から物質循環への接近を試みています。御承知の通り水循環は地球規模でのエントロピー処理機構を意味します。

R1−2:図ct01-2経済理論の相互関係から言えば、労働価値説は御指摘のように代謝モデルからはみ出してしまい、両者は理論的に相容れないと思われます。しかし、電脳経済学は基本的に情報の提供ないし構想の提案を狙うもので、論争や批判は主旨に沿わないので差し控えます。電脳経済学は、むしろマルクス経済学に学ぶ態度で臨んでいます。例えば図d70経済過程の一般形式はマルクス経済学の応用と見ることも出来ます。一方、マルクス経済学が電脳経済学をどう見るかはマルクス経済学の問題だと思われます。