電脳経済学v8> f用語集> d&j 法と正義 (Dharma and Justice)
(当初作成:2018/12/07)(一部修正:2018/12/09)

1.梗 概:
(1)「法と正義」について考えます。この対語はdrdデリダ〔1.(4)、2.(4)〕から来ています。結論を冒頭に述べれば、両者は社会的文脈においてマクロ(巨視的)とミクロ(微視的)の関係に対応します。次にその理由を述べます。
(2)先ず法には法(法学)法(仏教)があります。その説明は下記3.(1)(2) Wikipediaを参照願います。ここでの結論もまたマクロとミクロの関係になります。法(法学)はマクロの概念であり、一方の法(仏教)はミクロの概念です。仏教の法は存在から真理までかなり多義にわたるにも拘らず「神はサイコロを振らない」的には同一です。法(仏教)については更に下記2.(4)も参照願います。
(3)次に正義はミクロの概念で「私の正義」しかない。社会的正義の導出は際限ない論戦に終始するのみです。その文脈から法(法学)は社会的正義を目指す妥協の産物と言えます。従って規範から攻めた方が早い。
(4)上記の論点は簡単で、マクロとミクロを同時に取り扱わないことです。民主主義とか選挙は「正義から法へ」の社会装置と言えます。
(5)正義に関して付け加えると、正義は人間の対他的関係の規律を巡り実現されるべき法的な価値である一方で主観的な確信つまり正しさに係る判断基準でもあります。思想の自由を巡る法哲学的な自他関係用語です。

2.補足説明:
(1)法(法学)は秩序の維持や正義の実現を目的とします。秩序の対義語は混沌や混乱です。この社会秩序としては階層的に「宗教規範」「道徳規範」「法律規範」があります。
(2)余談になりますが、運転免許更新の際に講習を受けます。その時、交通警察の講師曰く「全員が交通ルールを守っていれば事故は起きない」と。成程と思う反面、それなら警察も法律も要らない道理になる。
(3)上記の文脈を整理すれば、etc倫理こそが究極のミクロとなります。倫理は人間意識の始まりで本人のみが決定できる対自概念です。この人格的進化の究極像がであります。
(4)法(仏教)に関する釈迦人滅の言葉として伝えられるものに「自灯明・法灯明」があります。釈迦の侍者アーナンダ(阿難陀)が「師がなくなったあと、いったい誰を頼りに生きていけばいいのでしょうか」とたずねた時、釈迦は「自からを灯とし、法を灯とせよ」とさとしました。後継者が指名されるものと思っていたら予期しない答が返ってきたのです。仏教では「ji2事実唯真」の立場をとります。このことは「法によるべし。人によるべからず」ともいわれます。釈迦は教え主として法を説いたものです。仏教では絶対者を認めないのです。(「3-2-4 解決できない問題はない」から引用) 上述の論点は現代風には「法の支配」或いは「法治主義」となります。
(5)最後に確認です。法(法学)は社会の約束事で、これをマクロと呼びます。一方、正義はこの対極にある個人の考え方で、これをミクロと呼びます。法(仏教)は人格の完成を目指す個人の方法論で、東洋思想では道と呼ばれます。人格の完成は個人レベルでの正義の実現であるけど、仏教はあくまでミクロの範疇です。社会的に統合に向かうか、個人的に完全を狙うかベクトルが違います。畢竟の要諦は現実肯定です。

(6)この現実肯定をデリダはウイウイと呼んでいる。(下記3.(8)参照) それにしても西洋の哲学者は諄い。

3.参考資料:
(1) 法(法学) (Wikipedia)
(2) 法(仏教) (Wikipedia)

(3) 正義 (Wikipedia
(4) 倫理学 (Wikipedia)
(5) これからの「正義」の話をしよう マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) 2011/11/25
(6) 【特別授業】サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』を読み解く 岡田 斗司夫 2013/08/23
(7) 正義の門前−法のオートポイエーシスと脱構築− 馬場 靖雄 長崎大学紀要 1996-10-31 pdf
(8) 『デリダ』 脱構築と正義  高橋 哲哉 講談社学術文庫 2015年05月09日