電脳経済学v3> g自分学> 3-2-4 解決できない問題はない

人間がもし自分の意志で生きているとしたら、誰も死ぬ人はいません。生を生の方から追えば、生はもっと早く逃げるだけのことです。宗教が死の方から生に光をあてることによって、生に意味を与えようとするゆえんです。これまでに述べてきた両面観は、その最終場面において生死に向けられるべきものです。
古代ローマの哲人はいいました。「自己に死はない」と。なぜなら「生きているうちには死はなく、死んでしまってからは死はなく、死につつあるときは死を思わない。したがって死はない」
さすがに哲人の言葉だけあって、反論の余地がありません。確かに自分の死はないのかも知れません。私たちにあるのは死ではなく、死の恐怖があるだけのようです。
先に述べたフォイエルバッハは「自己の身体は自己自身には重量のない存在だからといって、客観的にも重量のない存在なのではない」といっています。死の意識を体重にたとえているわけです。
事故や粗相は偽装された自殺とされています。注目されたい、理解されたい、と同情を求め、訴えているのです。人間の生きる姿は、生死が意識と無意識の間で、入り乱れて葛藤しているさまにほかなりません。
「死んだ子の年を数える」とは夭折したわが子は決して帰ってこないと知りつつも、どうしようもない親心を表した言葉です。仏教に「亡き子は親の善知識」という教えがあります。子を亡くしたのちの親の人生が、大切であることを説いたものです。憎らしかった同じ年頃の近所の子供たちが、わが子の生れかわりのように見えてかわゆくなってきます。人間のあらゆる罪のうちで、人の死を無駄にする罪ほど重い罪はありません。
仏教には五千を越えるお経があるとされています。それはその人その人に応じて、あらゆる救済の手だてを用意していることを物語ります。仏教に限らず宗教は、それがどのような人間であろうと、見捨てたり罰を与えることはありません。早く本来の自分に目覚めてくれることを願っているだけなのです。
神の愛も仏の慈悲も、この世界にあまねく遍満しているのに、人々はそのようなこととは露知らず、日常的な世間の営みに忙しい日々を送っています。世間の人が求めるものは寿命・名声・地位・財貨であり、欲するものは豊屋・美服・美味・美女であります。煩悩とはこれらを求めてやまない心をさします。しかし、これらは人間の本能に根ざす要求ですから、一概に否定される性質のものではありません。ただそれが過大であったり性急であれば、一方でそれ以上の犠牲を払うこととなり、自分自身も苦しむこととなります。それを求める方法や順序が適切かつ妥当なものかどうか、絶えず注意を払う必要があります。

理想として完全であるべき人間と、現実として不完全である人間がいます。そのギャップが問題としてその人に与えられます。人生目的としての理想像もそれに至る手段、方法もともに正しいものであるべきです。問題とその解決とは自身の方法論を情況に適合させることです。多様な方法論をもつことによって変転極まりない情況に対応することができます。
出口のない部屋にははいれません。同様に、解決できない問題はありません。問題意識をもつとは「われも人なり」の気概をもつことにほかなりません。私たちの生存は歴史への参加であるべきです。あらゆる事物に興味をいだき、関心を払い、関係を見出そうとする態度が求められます。人は未来と他者に責任をもつことによって、おのずと知恵も力も湧いてきます。
一般的な問題は問題とはいえません。つまり問題には解決が待たれる程度に応じて、優先順位が与えられています。具体的な問題は問題自身の中に答があります。問題の範囲定義は極めて重要です。その境界によって世界は内外に区分されます。この領域設定に際しては否定的接近態度が求められます。ノットハウ! バットホワイ? です。“いかに”でなく、“なぜか”によって問題が定義されます。問題の原因をたずねることによって「抜本塞源」の方策がさだまります。次に問題の処理方法に進むことができます。問題は、この原因と方法の双方向に、交互に関心をむけることによって、根本的な解決が約束されることになります。
私たちの苦しみは煩悩によるものです。それは恐怖からくるものであり、さらにすべての悪徳の根源は無知にあります。仏法を習得することによって、知恵を授かり慈悲に目覚めることができます。これが仏教の大まかな筋書きといえます。
次のように仏法の基本原理は極めて簡潔なものです。すごろくにたとえれば、ふり出しが「一切皆苦」であり、あがりが「涅槃静寂」に相当します。その場合、原因の径路が「三法印」であり、方法の径路が「四諦」であります。過去と未来の双方向ともいえます。

  三法印 (一切皆を加えて四法印ともいう。)
無常―現象界は変転極まりない。
非我―万物は相互関係によって存在する。
涅槃静寂―煩悩を滅却した絶対自由の状態。

  四諦 (苦集滅道)
苦諦―苦しみの存在に関する真理
集諦―苦しみの原因に関する真理
滅諦―苦しみの終滅に関する真理
道諦―苦しみの終滅に至る実践方法に関する真理で八正道による。

  八正道
正見―正しい見解
正思惟―正しい決意
正語―正しい言葉
正業―正しい行為
正命―正しい生活
正精進―正しい努力
正念―正しい注意
正定―正しい精神統一

  一法印 (必然則)
諸法実相―前提通りに結果が顕現される。万物万事万象はそうなるべくしてなっている。

簡単な説明をつけ加えますと次のようになります。
「諸行無常」の無常は無情ではありません。諸行無常とは、この世界が無窮であることを宣言したものです。運動観を通して時間の永遠性をつげるとともに、絶対者の実在を否定した言葉です。この諸行無常偈には、仏教自身が厳しく自己否定の態度を貫いている姿勢をうかがうことができます。ヘラクレイトスのいう「万物流転」(パンタ・レイ)とは、異なったものであることに注意を要します。
先に述べたように、仏教は因果律をその基本原則として、これを「因縁」とよびます。因は直接的原因を、縁は間接的条件をさします。因縁から結果までも含めると「縁起」となります。種子が土壌条件によって実を結ぶ関係にたとえられます。
諸行無常とはまた「これ生じるが故にかれ生ず、これ滅するが故にかれ滅す」という縁起の時間的前後関係を述べたものでもあります。
諸法非我」は多くの場合「諸法無我」とよばれますけど、あえて非我の方をとりました。「これあればかれあり、これなければかれなし」として、縁起を空間的、論理的に述べたものです。
私たちが用いている言葉は、そのまま概念を与えるものです。たとえばイヌといった場合、イヌという言葉はイヌでないものからイヌを区別することによって、イヌの概念を表現するものです。ネコでもないし、オオカミでもないしといった按配です。このように、非我にはそのものをそれ以外のものから位置づける深い意味がこめられています。
諸法非我を人間に適用すれば、我執を捨てなさい、そうすれば万物の相互関係に気づくことができ、ひいては宇宙の調和に目覚めることができる、という教えでもあります。
「草いろいろ おのおの花の 手柄かな」芭蕉のこの句に諸法非我の世界が映し出されています。
「法」とはサンスクリット語のダルマの訳語です。真理とよばれますけど、日本語にはそのまま対応する言葉はありません。性質、状態、法則、存在、正義、倫理、仏法といった概念を含みます。自然の理法ないし神の摂理をさすものです。

釈迦人滅の言葉として伝えられるものに「自灯明・法灯明」があります。釈迦の侍者アーナンダ(阿難陀)が「師がなくなったあと、いったい誰を頼りに生きていけばいいのでしょうか」とたずねた時、釈迦は「自からを灯とし、法を灯とせよ」とさとしました。後継者が指名されるものと思っていたら予期しない答が返ってきたのです。仏教では「事実唯真」の立場をとります。このことは「法によるべし。人によるべからず」ともいわれます。釈迦は教え主として法を説いたものです。仏教では絶対者を認めないのです。

「涅槃静寂」の涅槃は煩悩の焔が吹き消された絶対境であり、仏教における理想の境地をさします。原始仏教から一部引用すれば次の通りとなります。

  「涅槃」(ニルヴァーナ)
〇そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。
〇来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。―それが苦しみの終滅であると説かれる。
〇水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ―そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
〇そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。
〇さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。
〇これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。
(『感興のことば』 安らぎより)

これは物理学的には熱死とよばれるエントロピー無限大の状態にあたります。物質界でエネルギーの流れがつきた宇宙終末の状態が、精神界でそのまま目標とされる点に興味がもたれます。宇宙の終末は460億年先とされますけど、人間の精神は一気にそこまで達することができるとするものです。
このように自身の有限性や部分性に気づくことによって、無限性や全体性に目覚めることができます。これは意識の拡大であり知恵を授かることです。それはまた具体的問題の解決能力が得られることです。この知恵を他者のために生かすのが慈悲であります。自分のために生かすのは悪知恵とよばれるものです。

三法印が原因の方向から迫ることにより問題を一般化するのに対して、「四諦」は個別の具体的な問題に解決法を与えます。諦とは真理をさします。諦めるとは明らめると同義で、明らかに見究めた結果断念することを意味し、最初から捨てるものではありません。
四諦の教えは医者が患者を治療することにたとえられます。苦諦、集諦は特に説明を要しません。滅諦は苦しみの原因を悟るともされます。悟るとは過去を正すことです。自身の過去が一直線の上にきれいに並び、見透しがよくなることです。瞬間的な閃きが契機となって、涅槃の世界に進むことができます。そのための生活態度として道諦が説かれます。その実践方法が八正道によって与えられています。
「一法印」とは「諸法実相」をさし、仏教思想を一語で表すものです。この諸法実相については、古来多くの解釈がされています。法についてはすでに学びました。実相は現象界をさし、ありのままの真実の姿であり、仮相と対応するものです。仮相とは無知と虚飾に満ちたこの現実世界をさします。たとえば、セミは木の表面に似せた姿形をとることによって、生き永らえようとしています。擬態とよばれるものです。セミは嘘をつこうとしているのではなく、自身の質によってセミなりにこの世界に適応しようとしているのです。
物事がよく見えてくるにつれて、この世界が仮相から実相に変っていきます。よく見えるとは、法つまり真理の存在に気づくことによって、自身が目覚めることを意味します。世の中の仕組みや、物事の道理がわかってくることです。それはプログラムの通りにアウトプットされるという、必然則に対する理解といえます。プログラムにムシがついていれば、それに応じたアウトプットが出てきます。前提通りの結果が現れる、当然のことです。
さらに仏教には「一切皆空」または「五蘊皆空」の教えがあります。五蘊は先に述べた「五陰盛苦」の五陰と同義で、物質、精神をあわせた現象界をさすものです。空とは無ではありません。有無、生死、自他、真偽、善悪、美醜といった二元的世界を離れた、完全に執着が消滅した状態です。無差別の世界、無立場の立場、絶対自由の境地、「涅槃静寂」「諸法実相」「一切皆空」これらはみな同じ状態をさし、それを別の角度から述べているものです。平たくいえば、何事にもこだわらない心静かな態度といえます。
このように仏教の教えは苦−業−法−空の順序をふみます。業とは人間自身つまり内界をさすものでした。法とは、これに対応させれば、自身も含めて外界の万物万象をさすものです。哲学には論理、倫理、美学の分野があります。それぞれは基本的に自然、社会、永遠に対応するものです。これを法とよぶこともできると思われます。仏教は最終局面において業と法が渾然一体となるべきものです。
業とは無知の状態では、宿命ないし負い目をさします。しかし、本来は全過去における諸記憶を意味し、その多くは意識されないものです。法は全未来に対応します。「哲学とは郷愁である」としたのはノヴァリスです。十八世紀ドイツの哲学者であり、文学者、詩人でもあったノヴァリスは「歴史の流れは人類の出発した統一調和の世界への復帰にある」として「歴史はその終局において『我』の開顕を待っている」ともしました。

「自他一体」(「自他不二」ともいう)「梵我一如」「万物斉同」「神人合一」「主客合一」それを何とよぼうと、仏教の説かんとするところは、執着してやまない自我の解放にあります。内外を区別する自我の滅却によって宇宙意識に目覚めることができます。
時間に始まりがあるか。宇宙の外側はどうなっているか。身体と霊魂の相互関係。人格完成者は死後に生存するか。このような質問に対して、釈迦は捨て置いて答を与えませんでした。その答は「毒矢のたとえ」の中に見出すことができます。毒矢のたとえとは、人間を毒矢に射られた人に見たてて、矢についての無意味な詮索をしているうちに毒がまわってその人は死んでしまうとするものです。
私たちは解決を迫られている当面の問題をかかえています。人間が有限な存在である以上、多くの問題のうちから、その緊急性、重要性に応じた順序で取り組んでいくべきことは論をまたないところです。

これまで仏教は自身に対する態度であるとの姿勢を貫いてきました。そのことによって業や法を知ることができるからです。しかしその限りでは個人の精神のあり方にすぎないものであり、社会的な意味をもつとはいえません。つまり真理を通して倫理の世界に至らなくては、真理は意味を失うのです。
「愛を感じないものは、おもねることを学ばねばならない。そうでなければ世を渡ることができない」痛い言葉です。「たしかに、この世で人を欠くべからざる存在にするものは、愛以外にはない」ともにゲーテの言葉です。
愛は光り輝く小さな生命の粒です。愛は相手の美点を通して、その人格の奥深くはいりこみ、相手を中心部から生かすとともにその傷をいやします。
愛するとは相手を生かすことであり、信じるとは相手のために自分が死ねることです。ともにその根底には、自己否定ないし自己犠牲の精神があります。愛は相手を限定し、同心円的な広がりをもちます。つまり、偏愛でない愛はなく、それは自分の都合による情ごかしとなり、容易に憎しみに転じます。
憎しみは毒を含む黒いトゲです。相手の痛いところ、欠けているところを目ざとく見つけて、そこから相手を破壊しようとします。
一方、真実の愛は自身の涙や悲しみを通して体得されるものです。決して憎しみに転じることのない愛が「慈悲」です。慈は「与楽」を、悲は「抜苦」を意味します。あたかも太陽のように、万人万物をわけへだてなく慈しみ、いたわる気持が慈悲です。尽しても尽しても尽しきれない気持といえます。
私たちには“逆縁”を通して慈悲を学ぶ場が与えられています。逆縁とはいがみ合う嫁姑にみられるような、ともに地獄の責苦にのたうちまわる関係をさします。逆縁こそが本当の縁であり、骨の髄までしみこんだ業を落すために与えられた何よりの機会といえます。人間性が試されるのは、この逆縁の修羅場をおいてはありません。
それを克服することによって、「天真独朗」の新しい世界が開けてくるのです。

最後に、私見にわたりますけど、次の対応関係があるように思われます。

三法印
自然法則
範囲
錯覚
諸行無常 ゲーデルの定理 無窮論 時間
諸法非我 エルゴート仮説 存在論 空間
涅槃静寂 エントロピーの法則 終末論 自我

数字や物理の用語は厳密な約束事を前提に用いられますので、詳細はその方面の専門書に譲るとして、ここでは必要最小限の簡単な説明にとどめたいと思います。
「ゲーデルの定理」とは「不完全性定理」ともよばれ「体系の無矛盾性はその体系の中では証明されない」として「無矛盾性の証明は、無矛盾という点では問題にしている体系と同じ程度に疑わしい他の推論を援用しない限り不可能である」とするものです。これは絶対の存在を否定するものです。無限概念ないし言葉の曖昧さから、完全な真理体系の構築は不可能とするものです。輪廻思想に通じるものが感じられます。
「エルゴート仮説」とは「位相平均は時間平均に等しい」とするものです。物理学の前提をなしていますけど、数学的にはその正当性は証明されていません。観測者としての自我の存在とその場によるものと思われます。
「エントロピーの法則」は「体系の無秩序性を表現する物理量に関する法則」です。環境問題、情報理論、生命科学との関連から最近脚光をあびています。最も確かとされている物理法則であり、新しい社会経済理論に根拠を与える法則として期待されています。