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(最終更新日:2000年08月01日 )(一部修正日:2000年09月02日 )

C13:電脳経済学と岩井教授の貨幣論を中心とする不均衡動学との関連について、分かりやすく説明して頂きたいのですが。


R13-1:まえがき

コメント6の複雑系との関連の場合と同様に、この種のコメントは回答者として非常に困惑します。その理由は、私は電脳経済学に関しては提唱者として説明責任がありますが、一方の不均衡動学に関する私の理解は十分ではないからです。
このように理解水準が異なるとは言え、両者の比較対照は論点を明確にするうえで大切な作業だと思われます。この認識のもとに岩井克人教授の下記の著書を参照して、次のような整理を試みました。

(1)『ヴェニスの商人の資本論』岩井克人 筑摩書房 1985年1月10日
(2)『貨幣論』岩井克人 筑摩書房 1993年3月25日
(3)『岩井克人資本主義を語る』 講談社 1994年9月30日
(4)『二十一世紀の資本主義論』岩井克人 筑摩書房 2000年3月3日
(5)日本経済学会連合 創立50周年記念講演会講演録 『21世紀の資本主義論』岩井克人 2000年5月25日

R13-2:不均衡動学派についての理解

  1. 均衡学派の主張:
    (1)市場経済は純粋化すればするほど効率性並びに安定性がともに増して行く。
    (2)効用最大化を目指す消費側からの需要量と利潤最大化を狙う企業側からの供給量は価格の需給調整作用(価格決定機構と同義)を通じてバランスする。
    (3)アダム・スミスによる「見えざる手」の考え方を支持し、その正当化のために理論的根拠を示す立場をとる。

  2. 不均衡学派の主張:
    (1)市場経済はミクロ的な効率が増せば増すほどマクロ的な不安定性が増し、両者は論理的に二律背反の関係から逃れられない。
    (2)その論理とは、市場経済は根源的に投機性を内蔵していて、それは貨幣が「予想の無限の連鎖」を前提にしているからである。
    (3)アダム・スミスによる「見えざる手」の考え方より、むしろケインズによる「美人投票」の考え方に立ち、この理論的根拠を示す立場をとる。

  3. 純粋化:
    市場を巡る旧来の各種障壁が取り除かれ、市場機構が透明化、グローバル化して経済合理性が貫徹されて行くこと。

  4. マクロ的不安定性:
    マクロ経済の変動が、好況と不況さらにこれが昂じてハイパーインフレーションと恐慌と言う形をとって発生するのは不可避とする見方。

  5. グローバル化:
    (1)本質的な意味で外部が存在しない。「差異」が消滅して行く状態。
    (2)資本主義とは差異から利潤を獲得して行く経済機構を指す。ここに差異とは、例えば都市と農村を巡る労働力供給や賃金の違い、あるいは先進国と途上国間の各種格差を意味する。この差異を原動力として経済は成立しているが、この差異がなくなって行く過程。
    (3)アメリカドルが全地球的に基軸通貨としての地位を確立する状況。

R13-3:電脳経済学との関連

  1. 局面の捉え方
    誰がどこからどこを見るのか、議論には前提条件の整理が求められます。不均衡動学派を位置付けるために、先ず均衡学派と対応させて見ました。均衡学派とは伝統的な経済学の多数派であり、不均衡学派はそれを批判的に捉える少数派です。両派の違いは、「見えざる手」を巡る評価の違いによるものです。動学は静学に対応する用語で、その名の通り時間要素を加味した考え方を指します。
    結論から申しますと、どちらも正しいと思います。具体的な例として現在の日本経済の状況は、均衡学派あるいは不均衡学派のいずれの主張が当て嵌まるか。金融破綻の局面に焦点を当てれば、不均衡学派の主張が正しいと言えます。かと言って日本経済が全面的な危機状況にあるとも思えませんので、この面からは均衡学派の主張通りです。
    理論は性格上、現実のある側面を純粋化した形で提起されます。市場経済の純粋化とは何を指すのでしょうか。R13-2:1.(1)によれば効率性が最大化された状態です。それは売り手および買い手ともに商品を巡る完全情報を持つことを意味します。完全予測が可能であれば誰もが瞬時に億万長者になれます。しかし、これらは極限状態を比喩したもので、実際にはあり得ないことです。誰もが制約された状態にあるから市場で決着をつける外ない。ここで問われるのは市場を取り仕切るレフリーの倫理的資質です。この評価を巡って立場が分かれるとしても、現実には両者が混在しているのです。

  2. 電脳経済学の主張
    電脳経済学は、伝統的な経済学を否定も批判もしていません。その枠組み拡張を主張しているだけです。その方が、環境問題や南北問題などへの取り組み方が、より明示的に表現出来るからです。
    伝統的な経済学でも環境問題は早晩解決出来ると思われます。例えば、地球温暖化防止にかかる「温暖ガス排出権の取り引き」の考え方は、金融派生商品(デリバティブ)で言うリスクヘッジの目的と同じ文脈で捉えることが出来ます。両者の違いは正の商品か負の商品かにあります。伝統的な経済学のもとでは負の商品は外部化する外ありませんでした。その永年にわたる集積が環境問題として提起されています。
    一方、電脳経済学における代謝モデルでは廃物市場を商品市場と同列あるいはそれ以上に位置付けています。したがって、安心してこの種の問題に取り組むことが出来ます。資源市場や労働市場についても同様のことが言えます。道に迷って目的地に辿り着く場合と地図に沿って到達する場合を比較するとき、その結果は同じでもその過程における心理状態は著しく異なります。電脳経済学はこの地図に相当するものです。
    R13-2: 5.グローバル化:(1)(2)で述べられている「差異」に関しては次のように言えます。差異は価値の源泉であり、この意味から経済は差異を埋める過程において成立する。この見解に関してはまったく異論がありません。物理要素の導入において私は情報についてのみ差異を取り上げていますが、物理要素すべてに対して当て嵌まります。物理的に言えば差異があるから流れが生じ、差異が減少する過程はエントロピー増大に相当します。閉鎖系において流れが尽きる状態がエントロピー最大の状態となります。地球は閉鎖系ではないので、今後の地球社会においては多様化が促進され差異が増大しても、消滅することはありません。つまり、何の差異か対象を明確にしないと議論が混乱すると思われます。

  3. 不均衡学派並びに経済モデルに対する意見
    不均衡学派は、現行の資本主義のもとではいずれ恐慌の発生やハイパーインフレーションの状況が避けられないとしますが、このような終末論的な破局は考えにくいと思われます。人間には失敗に学ぶとか漸進的な社会改良への努力性向があります。その端的な実例として、情報の共有化や予測精度の向上を挙げることが出来ます。
    均衡か不均衡かの二者択一の議論より、むしろ均衡状態は不均衡状態の一局面として「開放定常系」を巡る外乱因子の影響評価とする捉え方になるべきだと考えます。(資本の応答・同定形式を参照。)一般論ですが、経済モデルでは系あるいは枠組みの定義が曖昧であり、そのために境界条件や初期条件もまた曖昧になっているようです。経済現象が、自然現象のように実験ができないのであれば、このことはなおさらに意味深長になってくると思われます。