電脳経済学v3> e社会系> e22 目的論と方法論
一部修正:2000/
10/22; 2004/11/14; 2010/02/18; 2010/03/30

目的と方法(マクロ)

目的と方法(ミクロ)

目的連鎖関係
帰納と演繹

図e22-1 目的と方法(マクロ)

図e22-2 同左(ミクロ)

図e22-3 目的連鎖関係

図e22-4 帰納と演繹

(1) 目的論と方法論のモデル化
モデルを用いて目的論(Teleology)と方法論(Methodology)の関係について検討を試みます。このモデル化に際して図e22-1と図e22-2に示すようにマクロとミクロに分けて考えます。先ずマクロモデルについては図e22-1のように球形をイメージに描きます。各人の目的が球の中心から同心円と鉛直方向に放射状に広がって行き、これを時間と対応させ目的論と呼びます。一方の同心円は空間に対応し方法論を表すとします。内部の塗りつぶした部分は過去つまり歴史に相当します。ちなみに中心点を情報ビッグバーンとします。
特定の鉛直線と直交する水平曲面の交点近傍を拡大すれば図e22-2に示すフロートのような形で表現できこれをミクロモデルと呼びます。両図ともに水平方向の円環は閉じていますが、鉛直方向の法線は開いています。これは目的論の時間的個別性と方法論の空間的普遍性を表現しています。比喩的に言えば目的論はエントロピー増大則に方法論はエネルギー保存則に対応しています。次に主体の所在について考えます。

(2) 時間と空間を主体に対応させる
時間や空間といってもそれを措定する主体あっての話で、誰が時空を対象化しているのかが問われます。これは観測者あるいは認識主体と呼ばれ、主体はこの時間・空間との交点近傍において出現的に存在します。この主体が出現する様態を「現前性」と呼びます。主体は三者の一致において消滅し、不一致において現れる性質があります。つまり存在を巡る認識は三者の不一致に基づく錯覚現象に外なりません。
これを整理すると次のようになります。自我とも呼ばれる主体は時空と絡み合う関係にあります。つまり主体は絶対と相対の中間域を浮遊していて半統一・半分裂の状態にあります。なぜなら主体は運動状態を常態とする時空に対応できないからです。仏教ではこれを「諸行無常」と呼びます。目的論と方法論を相対的に一体視すれば存在論とな ります。存在論についてはロボットとの関連においてオントロジーとして述べています。さらに存在論と認識論の対応関係については梵我一如として詳しく取り上げています。

(3) 経済を巡る論理枠組みとの関連性
目的論と方法論の関係をミクロモデルで表現した図e22-2は図e16経済を巡る論理枠組みと同じ形をしています。価値論的な視点から図e16を見れば垂直方向は個別的価値の線(目的論)を表し一方の水平方向は普遍的価値の面(方法論)を示します。これはあたかも現実の波間を漂うフロートの形をしています。さらに、図e22-2において点線で示した三角形は右の図e22-3目的連鎖関係にあるように階層的な構造をもった三角形に対応しています。
目的連鎖関係とは、高校を例に挙げれば中学生にとって高校入学は目的ですがすでに実現した高校生にとっては次なる目的の方法になる関係を指します。下の階から見れば天井でも、登れば床になる道理も同じことです。社会的な地位を登りつめて行く過程や事業家が次々と事業を拡大して行く姿も目的連鎖であります。人間の生き様自体が目的連鎖であります。かといって人間は死を目的に生きている訳ではありません。結果として死ぬので目的は「自由」の獲得にあります。自由とは何かは形而学的な主題で本ページの狙いからそれますので、稿を改めて言及します。
ちなみに目的論(teleology)の目的(telos)は終局あるいは究極の狙いを意味します。哲学用語としては対象や客体を指すobjectと同義で、この場合には自我や主体を表すsujectの対義語となります。目的が方法を指しsubjectが従うを意味する点に注意を要します。

(4) 「方法論争」との絡み
目的論と方法論に関しては経済学における現実科学性と法則科学性を巡る論争とも対応関係を見い出すことが出来ます。シュモラーとメンガーの間で繰り広げられた方法論争との絡みから、この点をもう少し踏み込んで見ましょう。先ずオーストリア学派に属するメンガーは方法論の視座から次のように指摘します。科学の対象は具体的現象の認識か、この具体的現象中の繰り返す定型の認識かのどちらかである。定型の認識なしには無数の具体的現象を把握し得ず精神的に整理し得ない。歴史的科学と理論的科学との区別はこの2種の認識の区別に基づく。
一方、当時ドイツの経済学会に君臨していた歴史学派のシュモラーは目的論の立場から個別政策的な論陣を張って応じますが、後に一方的に打ち切り宣言をして論争に幕が降ろされます。この論議は彼らの好む二項対立構図そのものですが、同様の論争は歴史問題や宗教問題を巡り各方面で際限なく繰り返されています。対象が異なるために噛み合わない議論も一歩退けば相補的な関係として調停可能と考えられます。ちなみに相補的とは「多様性と普遍性」の関係を指し、具体的には生命経済系あるいは人間原理として示す通りです。

(5) 論理実証性と歴史的利害関係の折り合い
このことはタテ方向の時間を重視するか、ヨコ方向の空間を対象とするかの見方の違いであり、当然両方を複眼的に見るべきです。さらに目的性に限っても個人の問題だとする主張と社会の問題だとする主張がありますが、これも論理の構造は結局同じことになります。つまり論理実証性の問題と歴史的背景に基づく利害や感情の問題は一応別と見る方が現実的な対処法と言えます。しかし長期的には科学的な方法論に基づく論理実証性が優越する結果になります。つまり論理実証性が広範な時間的・空間的な展望に準拠するのに対して歴史主義的な立場は地縁的な過去に依存するので視野狭窄気味と言えます。

(6) 電脳経済学としての論点整理
一人の人間は何ものにも代えがたい還元不可能な統一体であります。したがって人間は本来的に一人一人が一つの世界に住む自由と権利を有し、この原則を一人一世界の考え方と呼びます。ここから目的性は個人の問題となります。確かに平和や自由・平等・友愛のような社会の目的となるべき共通の価値もあります。しかしこれは個人の目的の共通項を括りだしたもので、指導的な立場の人たちが社会を纏めて行くうえで用いる標語であり方便といえます。
それでは各個人の価値の実現は結局のところ何を目指しているのでしょうか。それは存在と認識の一致だと思われます。言葉を換えればあるがままを認める態度であります。人間はこの実践がなかなか出来ない、換言すれば人間世界のあらゆる不幸は現実を認めない態度から発生しています。それは意識構造が図e22に対応していないことを意味します。人間の意識には偏見・高慢・執着といったバイアスが住み着いています。人はこれらを取り除こうと苦しむのですが、逆にこれらを認める方が早道だし容易であります。つまり、その方が意識の拡大化に結びついて行きます。この接近をin-kilter化と呼びます。
18世紀ドイツの哲学者(マックス・シェーラー?)は「この世のことは統一された一つの精神があればこと足りる」 「人間は誰もが宇宙の中心に位置している」といっています。日本の哲学者西田幾多郎の言葉「絶対矛盾の自己同一」もまた上記の別な表現と受けとれます。つまり、万物万事を肯定的に捉える態度であります。