電脳経済学v5> f用語集> knt カント (v6) (当初作成2010/04/28:一部修正2010/05/02) (一部追加3.2:2016/08/11)(一部追加4.(10):2018/08/03)

1.カントの要点:
イマヌエル・カント(Immanuel Kant: 1724-1804)を巡る概論は割愛して筆者がカントをどう捉えているかについて要点を記す。それは端的に梵我一如思想とカントによる思考枠組みを重ね合わせた地平融合を指す。つまり如是我聞カント版である。
カントは体系的な網羅性をもって正面から時代に向き合った哲学者である。カントは人間の理想をなす普遍妥当な価値とされる真善美との対応関係において「我々は何を知りうるか」「我々は何を為しうるか」「我々は何を欲しうるか」と真の問いを発してそれぞれ@『純粋理性批判』(1781/1787)、A『実践理性批判』(1788)、B『判断力批判』(1790)として纏め上げた。
この三批判書はそれぞれ論理・倫理・美学と対応して存在・行為・価値を取り扱いかつこの三者は認識論で貫かれている。とりわけ反省的判断力の性質とその限界を考察し自然が含意する合目的性の描出を試みた。この文脈において初期のカントはニュートン自然哲学に関心を向けこれは必然的にアリストテレスからプラトンさらには神の存在に遡源して行く。この自然哲学の関係は宇宙人間の関係つまり梵我一如に対応する。本ページの狙いはこの対応関係の吟味にある。

@は有限性の自覚を巡る超越論的認識に集約できこれは目的論の別なる表現である。デカルト因果論的機械的世界観の嚆矢濫觴とすればカントは目的論的有機的世界観への端緒を開き道筋を示した。20世紀までが機械と油の時代とすれば21世紀からは情報と水の時代となる。それぞれはデカルト的因果論とカント的目的論と称呼できよう。前記は物理要素の用語法によれば物質エネルギーの時代から情報エントロピーの時代となりこれは方法論と目的論の関係をなす。
Aは定言命法が知られる。これは「あなたの意志の格率(主観的な行動基準)が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」 と定式化される。倫理の要諦はまさにこの一文に集約される。レヴィナスのいう「汝、殺すなかれ」である。平たくいえば”人に迷惑をかけるな”となる。人に迷惑をかけずに人間は生きてゆけないとすればせめて”人の嫌がることはするな”となる。倫理とは自分への真の問いかけであり、いかなる社会規範も倫理から発出している。
Bは美的感覚が主観的であるにも拘らず普遍性を備えているという逆説真理を述べている。これは人間の側から見た自然が暗示する合目的性の感じ方を指す。野辺に咲き乱れる花や夜空に輝く満天の星を見て人は何を感じるだろうか。個別の感じ方があると同時に共通の感じ方もある。具体例として、ダ=ビンチになるモナ・リザが
時空を超えて人々に感動を与える。カントの非凡さはこの構想力を『永遠平和のために』にまで敷衍した点にある。これを次節で詳述する。

2.カントの慧眼:
カントは東プロイセンの商業都市ケーニヒスベルクで馬具職人の四男として1724年に生まれその地で生涯を過ごしそこで没した。この境涯から彼の業績がどう導かれたのだろうか。地理的条件並びに歴史的経緯に鑑みてカントが晩年に『永遠平和のために』(1795)を著した背景は想像に難くない。年譜に照らしてこの小論はカント哲学の総括と考えられる。基調として上から目線のようにも感じられるがこれは現実的な提案故ともいえる。しかしつぶさに読み解くとその全体像は自然の機序に準拠している。つまり超越論哲学複雑系散逸構造atpオートポイエーシスなどの今日的な知見と見事に一致し合目的化されている。現代熱力学の用語法を援用すればエントロピー生成極小定理に則している。カントの洞察には改めて驚くほかない。

3.梵我一如との絡み:
冒頭で触れた梵我一如思想とカントによる思考枠組みとの絡みは次のように整理できる。カント哲学の源流を自然哲学に求める立場並びに宇宙人間の関係が自然哲学の関係に対応する点もすでに述べた通りである。一如思想は一元論に連なり発展性や説得性が希薄である。ここで一如と関係は峻別しないと無用な混乱を招く。次に上記4語に簡潔な用語説明を加えて整理に代える。
(1)宇宙:梵我の文脈において宇宙は梵天に相当する。これはインド哲学における万有の原理ブラフマン(梵)を神格化したものであり、この意味から科学というより宗教である。
(2)人間:同様にインド哲学でアートマン(我)は本来的に呼吸・生命原理を指し、のちに個人の心身の活動の基礎原理つまり自我の本質・霊魂を意味するようになった。原義を辿るとブラフマンとアートマンは親子関係を指し親が子に親子の一体性を諭す構図が成立する。これは自己同一性の確認とも人間は宇宙の塵を意味するとも解釈できる。キリスト教における人間は神の似姿とする比喩との符合は驚嘆に価する。本サイトでは梵我の関係は存在と認識を巡る表裏関係として割り切っている。
(3)自然:自然の用語は多義的であり前後の文脈をきちんと押さえないと混乱を招く。アリストテレスは自身の『形而上学』において神学形而上学を「第一哲学」に位置づけ自然哲学を「第二哲学」と呼んだ。大胆に割り切ればこの三者は現代における宗教・哲学・科学に相当する。形而上学はMetaphysicsの訳語でこれは自然をあらしめる根本原理を指す。
(4)哲学:こうなると自然と哲学の境界が消えてしまう。神の一撃で宇宙が始まったとすれば神が第一原因となる。しかし逆に宇宙論の成果がビッグバンであれば出発点は科学となる。時間順行は存在論の立場であり原因から結果が演繹的に導出される。一方、時間逆行は超越論的認識論の立場つまり目的論で結果から原因が帰納的に解明される。これは分岐して多様化した現在の姿から縮減経路を辿り普遍化する考え方である。方法論としての科学が前者の立場であれば目的論としての哲学は必然的に後者の立場となる。これは外的宇宙と内的宇宙あるいはマクロコスモスとミクロコスモスの関係に対応する。

3.2 「カント永遠平和のために」との絡み:(追加:2016/08/11)
(1) NHK 2016年8月Eテレ100分de名著において『カント永遠平和のために』 (下記4.参考資料(9)参照)が放映されたので本項を追加した。それに対応して本ページを読み返したけど不都合な点は見当たらなかった。ただ、前回修正から約6年間が経過しているのでその間における追加事項を下記に記す。
(2) @spt3時空の論点説明 2.現実理解へ向けて (3)カントはどう考えたか: 彼によれば時間は内感の基本形式であり、空間は外感の基本形式となる。筆者の論点は時間/空間が実数/虚数と対応関係にあり、且つ時間・空間・主体の交点がmk無記となる。
Ac50生命経済系の考え方 「図c50-3調停によるカント認識論」: この調停はカント哲学に現れる用語法で統合原理を意味する。
Bqut量子論」 3.量子力学の要点 (4)自由とは認識の自由を指す: 人間は感覚や理性の内側でしか認識できない。つまり外側は想像する外ない。彼はこの外側を「物自体」とか「超越論的」と呼んだ。つまり、認識を先験的(アプリオリ)に捉える彼の指摘は量子論における知見と見事に整合する。

C本サイトにおけるカントの出現ページ: 上記以外にもカントは本ページで頻繁に引用している。
D時代状況を踏まえて『カント永遠平和のために』 に付記すれば”深層”に加えて”広範”が要請される。なお、「平和」に関してもその意味深長性に鑑み稿を改めて考察を加えたい。

4.参考資料:
(1) 超越論的認識とは何か永井俊哉ドットコム
(2) 『インド人の考えたこと』―インド哲学思想史講義 宮元 啓一 春秋社
(3) 超解読! はじめてのカント 『純粋理性批判』 竹田 青嗣 講談社現代新書 2099
(4) 『カント入門』 石川 文康 ちくま新書 029
(5) 『カントの読み方』 中島 義道 ちくま新書 740
(6)
入門・哲学者シリーズ3 『カント』 わたしはなにを望みうるのか:批判哲学 貫 成人 青灯社
(7)
シリーズ・哲学のエッセンス 『カント』 世界の限界を経験することは可能か 熊野 純彦 NHK出版
(8) 知の快楽 哲学の森に遊ぶ 「カントとドイツ観念論」 壺齋散人
(9) NHK 100分de名著 『カント 永遠平和のために』 NHKテキスト 2016年8月Eテレ 萱野 稔人 NHK出版
(10) 『カントの認識論におけるア・プリオリな形式と生得観念との関係、生得観念とは何か?』 tantan